「マスコミ市民」NO.479 08年12月号
「戦争は望まない人まで巻き込まれる」
▼秋葉原で起きた無差別殺人事件をきっかけに、ダガーナイフの所持を禁止する銃刀法改正案が成立することとなった。ワーキングプア対策や心の病に苦しむ若者のケアーはまったく不十分なのに、こんな表面的な法改正で何が前進するのだろう。都市で生活する若者は警察官の不当な職質に迷惑千万であるのに、こんな法律ができたらまた警察に都合のいい口実を与えるだけである。無意味なパターナリズム法案に、民主党まで賛成している。実生活をよく考えてほしいものだ。
▼空自トップの田母神という人の言動は、個人が刃物を持つのとは桁違いの憂慮すべき事件である。民間人が美術品のナイフを所持することを禁止する前に、高度殺人兵器を操る責任者の危険行動を厳しく規制すべきである。処分もろくにせずに6000万の土産つき退職など、言語道断だ。歴史から何も学ぼうとしない愚か者は、「村山談話」を「言論弾圧の道具だ」と述べた。言論弾圧の悲惨も人権侵害の実態も知らない人間に、弾圧を語る資格はない。過去の過ちを反省もせず、他人の痛みをわかろうともしない、実に身勝手で幼稚な発想だ。アバグループに提出した「懸賞論文」を拝見したが、私が卒業した三流大学の年度末試験でさえ、こんな答案は恥ずかしくて書けないレベルの作文である。
▼また、「政府見解に一言も反論できないようでは、北朝鮮と同じ」だと述べ、「言論の自由」とまで宣ふた。「言論の自由」という精神的自由権は、「国家からの自由」であり、国家が言論を抑圧してはならないという国家自身を縛る憲法の要請である。全体の奉仕者である職責を有する彼が、すぐれて職務上の命を受けた事項に関して「国家からの自由」を主張できるはずがない。不勉強もここまでくると開いた口が塞がらない。
▼憲法66条2項には、「内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない」という「文民統制(シビリアンコントロール)」の概念が書かれている。「軍隊」がないわが国にあえてこの規定があるのは、憲法制定時における極東委員会の強い要求と明治憲法下での軍部暴走の反省からである。名古屋高裁イラク違憲判決に際し、田母神は「そんなの関係ない」と言ったが、この暴言を含めて一連の発言は明らかに憲法違反である。先般「讀賣新聞」に防衛上の情報(南シナ海での中国潜水艦事故情報)を提供したとして北住一等空佐が懲戒免職処分を受けたが、どちらの行為が法的・社会的に罪深いか、誰の眼にも明らかだ。
▼「窮状」(9条)をアルバムにした沢田研二さんは、「攻められたら守るだろう」と言ったバンド仲間に対して、「一対一の喧嘩と戦争は違う。戦争は望まない人まで巻き込まれる」と述べたそうである。田母神的危険思想は、罪なき人を戦禍に誘う。田母神発言を擁護している自民党国防部会の連中は、ジュリーの爪の垢でも煎じて飲んでほしい。
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「マスコミ市民」NO.478 08年11月号
問われるべきは「日本国民」
▼2006年10月、覚せい剤所持の現行犯で逮捕起訴されたスイス国籍のクラウディア・ツァーベルさんは、裁判で無罪となった後も検察が控訴したため再拘置された。7ヵ月にもおよぶ拘束で自殺にまで追い込まれた心境を綴った手記で、「私が外国人だという理由だけで、無罪判決にもかかわらず自由を剥奪された」と述べている。観光で日本に入国する前、旅行先で知り合った人から渡されたスーツケースの中に覚せい剤が隠されていたのだが、彼女はそのことを知らなかった。裁判所も「故意と認めるには合理的な疑いがある」と判示したのに、検察は強制送還を防ぐため拘置したのである。
▼身に覚えのないことで身体の自由を奪われたのに、行政からの補償はなく、また日本国民も自国政府に何ら怒りを表明しない。いま中国で食品被害が起こっているが、先日「日本人に被害者が出たが入院には至らなくてよかった」という報道を見た。外国で事故やテロが起きると、必ず「巻き込まれた日本人はいない模様」とアナウンサーは言う。しかし、被害者がスイス人であれ中国人であれ、日本人とどこが違うのであろうか。「日本人が無事ならいいのか」、「外国人はどんな酷い目にあってもいいのか」、私はこの国の自己中心的で見識のない島国根性に、深い悲しみを覚える。
▼10月11日、「三浦和義さんがロスで自殺」という衝撃の一報が入った。三浦さんの死を単なる自殺と受け止めるのは躊躇するし不可解である。三浦さんの弁護人は他殺だと主張している。スイス人女性は日本から酷い仕打ちをされたが、三浦さんも日本政府と日本社会に殺されたのだと思う。最高裁で無罪が確定したにもかかわらず、身体の拘束という最大の人権侵害に対して、政府は何ら手を差し伸べなかった。ロス郡地検広報官が「DNA鑑定や新証言などの新たな証拠はなかった」と証言した後でさえ、政府も世論も抗議の声をあげない。こんなにバカにされてもポチでいたいのか。
▼「それでも三浦さんはあやしい」と言う人に言いたい。裁判とは、無罪推定のもとで法的手続きに則り証拠にもとづいて事実認定することであり、その結果有罪が退けられたら無罪なのである。したがって、ロス疑惑の犯人が三浦さんかどうかは当事者のみ知ることであり、無意味な議論なのだ。以前、三浦さんと在監者の特別権力関係(公法上の原因により成立する公権力と特定の国民との従属関係)について論じあったことがある。私は法の支配と基本的人権の観点から旧監獄法下の刑務所を批判したが、三浦さんは塀の中の実態を語り看守の立場を尊重していた。そこまで律儀な三浦さんを死に追いやった責任の多くは、他殺の可能性はあるにしても、私たち日本国民にあるのだと思う。
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「マスコミ市民」NO.477 08年10月号
リベラルな空気を、いま取り戻そう
▼この雑誌が世に出るころは、麻生太郎氏が自民党総裁選挙で勝利し、形だけの臨時国会を開いて総理に就任しているであろう。しかし、一歩立ち止まって考えてほしい。総裁選挙の馬鹿騒ぎは何だったのか。麻生氏は、自民党幹事長として9月12日の国会開会を目指した中心人物ではなかったか。その本人が、国民に何の謝罪もせず、総選挙の「事前運動」にうつつをぬかすとは、無責任そのものである。
▼9月15日の東京新聞「本音のコラム」で、山口二郎氏は麻生氏の総理の資質を問うていた。魚住昭氏の著書『野中広務 差別と権力』(講談社)のなかで、麻生氏が野中広務氏に対して「被差別部落出身者を総理にするわけにはいかない」と自民党河野派の会合で発言したこと、そして引退直前の自民党総務会で野中氏自身が麻生氏の面前でそのことを暴露し糾弾したことを指して、「麻生という政治家を基本的に信用していない」と厳しく批判している。さらに、「一国の最高指導者になろうとする政治家について、その言動をチェックし的確性を吟味することは、メディアの使命である」と、苦言を呈している。氏の批判は、至極当然である。
▼最低の差別主義者である政治家を、「まんがオタク」、「べらんめえ調」、「明るい性格」などと当たり障りのない言葉で形容しているメディアは、自らの責任放棄でしかない。「失言癖」という指摘もあるが、野中氏への侮辱は個人に対する失言のレベルではなく、「部落差別」という日本が世界に最も恥じる史実に対する無自覚である。もとより麻生氏は、自民党政調会長時代に東大五月祭で「当時朝鮮の人たちが日本人のパスポートをもらうと名前に『金』と書いてあった。それを見た満州の人たちが『朝鮮人』だといって仕事がしにくかった。そこで朝鮮の人たちが『名字』をくれといったのがはじまりだ」と発言した。創氏改名は朝鮮人が望んだものと認識している歴史修正主義者を日本の「顔」にすることは、国民の恥を世界にさらすに等しい。総選挙で「麻生総理」を選択することは、「私たちはこの程度の国民です」と公言するようなものだと思う。
▼「オウム事件」以降、日本社会は極端な警察国家に変貌した。そして、「9,11」事件によるアメリカからの軍事圧力と小泉・安倍反動政権による諸悪法の成立により、日本は民主国家から脱落するぎりぎりのラインまで追い込まれた。70年代80年代に存在したリベラルな空気を、いま取り戻さないと手遅れになると思う。民主党は、警察庁が最も嫌う「取調べ可視化法案」を参議院で可決させたが、この一点だけでも、野党を中心とした政権をつくる意味があると思う。
「マスコミ市民」NO.476 08年9月号
もう一度「戦争と平和」について考えてみたい
▼8月15日、63回目の敗戦の日にあたり、靖国神社には15万2000人が参拝したという。この中の一人、岐阜県の遺族会会長が、「平和な暮らしができるのも、若くして命をささげた人がいたからこそ」と言っている新聞記事を読んだ。一見違和感なく読み流してしまう人も多いと思うが、私は「若くして散った英霊を参拝することの何が悪い」と、アジアの人々の悲痛な感情を忖度しなかった小泉元首相を即座に思い出した。本当に「“若くして命をささげた人”の無念さを受け止めて参拝しているのか」と、参拝者たちに問いたい。
▼作家の星野智幸さんは、「自殺という戦争」というコラムで、「死者を追悼するとは、その苦しみを理解しようと努めること」と述べている。最期に「おかあさーん!」と叫んで散っていった特攻隊の若者は、「命をささげた」のではなく「命を奪われた」のであり、自殺することを国家から強要されたのである。その切ない思いの一片でも理解しようとするならば、「命をささげた人がいたから平和がある」などと寝惚けたことを言えるはずはなく、「二度と過ちは繰り返しません。許してください」という言葉が出てこよう。今年も多くの国会議員が靖国を参拝したが、彼らは皆「平和」を口にしても、「昭和天皇の戦争責任」や「9条2項の擁護」は、聞いたことがない。
▼また星野さんは、「本当に平和なら、どうして年間3万人もの一般人が自殺していくのだろうか」と述べている。私は自殺も中絶も死刑にも反対であるが、今「平和な暮らしができている」と思っている人は、死を選ぶしかないまで追い込まれた人たちのことすらも想像できない、浅薄な人間である。そして、アメリカに加担して罪のないイラクやアフガンの子どもたちの手足や命を奪っている責任が日本にあることも認識できない、無知で無自覚な人間だと思う。
▼8月15日に際し、「いまは平和だ」という愚かな認識は捨てるべきである。ロシアの作家ガルシンは、「この世の中に人間ほど凶悪な動物はいない。狼は共食いしないが、人間は人間を生きながらにして丸呑みする」と述べている。アメリカの哲学者ウイリアム・ジェームスは、「人間は最も恐ろしい猛獣であり、しかも同じ種族と組織的に餌食する唯一の猛獣である」と述べている。人間の本質を見つめなおし、もう一度「戦争と平和」について考えてみたい。私は性悪説に立ち、「人間を育めるのは教育でしかない」と考える。ゆえに、絶対的な平和主義に行き着くのである。
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NO.475 08年8月号
外国人ジャーナリストが自由に活動できる国に
▼サミットを機に、日本の民主主義は急激に後退した。東京と札幌を中心に限度を超えた異常警備と一般市民に対する不当な職務質問、「反G8」集会・デモに対する強権的な弾圧、外国人ジャーナリストや学術関係者に対する入国規制・長時間の入管尋問・強制退去等、「先進国」とは思えない、国際的にも恥ずべき人権感覚である。鯨肉の横領を告発したグリーンピースメンバーの不当逮捕や大阪釜が崎の地域合同労組委員長の逮捕・勾留も、サミット財務相会議や洞爺湖サミットを意識しての不当弾圧であることは間違えない。
▼とりわけグリーンピースへの弾圧は、法的にも納得できない。刑法235条の窃盗罪が成立するためには、他人の財物を摂取する故意のほかに不法領得の意思を要する。判例は、「経済的用法に従い利用または処分する意思」(最判昭26、7、13刑集5巻8号1437頁)と述べており、公務員の不正を告発する目的の行為は経済的用法ではなく、犯罪の構成要件に該当しない。しかも鯨肉を業務上横領した調査捕鯨船員は、何のお咎めもなし。まさに国策温情である。
▼東京や札幌では、警官がデモ隊を挑発して暴力を振るう光景が、数多く目撃された。また街を歩く若者に、のべつ幕なし「カバンの中を見せろ」とイチャモンをつける警官の姿は、戦前のオイコラ警官と同じである。「テロ対策」を口実にした当局の人権弾圧は、何が目的で、どういう社会を描いているのか考える必要がある。
▼小泉・安倍・福田と続く右派・反動政権のなかで、公安警察は「わが世の春」を謳歌し、警察庁内の予算と人員を強化する絶好のチャンスを企んでいる。しかし、ただそれだけではない。職務質問一つみても、若者は狙われるが年配者はターゲットにされない。ネクタイをしていると職質されないが、GパンTシャツ姿だとすぐにやられる。彼らは、権力に従順な穏やか人を好み、体制に異議を唱えない「澄みきった社会」を描いているのだ。
▼道端にタバコの吸殻一つ落ちていないシンガポールのような潔癖社会を、心地よく思えるだろうか? デモもストもできない中国や北朝鮮のような社会が、健全だといえるだろうか? 報道によると、日本の「報道の自由度」は世界第37位、日本人の「幸福感」は世界第43位だという。多くの人は、「腹にイチモツ背に荷物」を背負い、肩を窄めて暮している。権力にものを言わない私たち自身が、こういう閉塞社会をつくってしまったと思う。せめて外国人ジャーナリストが自由に活動できる国にしなくては、恥ずかしくて海外旅行にも行かれない。
▼日曜日の歩行者天国で無差別殺傷事件が起き、7名の尊い命が奪われた。ワイドショーは凄惨な事件を連日大々的に取り上げ、関係者のインタビューや犯罪心理学者のコメントを流し続けた。ショッキングなこの事件報道を見ながら、日本社会が抱える病の深さを考えさせられた。▼一つは、若者の事件が起きるたびに出される、友人・知人や教師のコメント。「学校の成績は優秀であった」、「県内屈指の進学校を出た」といった評価である。罪を犯したことと学校での成績との、どこに関連性があるのだろうか。“学業が優秀な者は悪いことなどしない”というメディアの偏見に、誰も抗議しない。おそらく大多数の日本人は、無自覚のなかにその類の「偏差値差別」をもっているのであろう。はっきり言いたい、「もう、そういう差別・偏見はやめよう」と。私の学校時代の成績は、「12、12(いっちに、いっちに)」と隊列を組んで行進するかの有様だったが、いまだに人を殺す事件は起こしてはいない。▼二つは、秋葉原の商店街組合が、翌週以降の歩行者天国を中止にしたことである。航空機の墜落事故が起きた翌日は搭乗キャンセルが増える心理状態と同じで、気持ちは分からないではない。しかし、車を排除すれば犯罪は起こらないと考えているのだとしたら、あまりにも短絡的な発想であろう。▼三つは、インターネットのサイトに殺人予告をほのめかす書き込みがあったら、警察に通報するようにウェブ管理者に呼びかけたことである。冗談やお遊びも含めて無数にあるその種の書き込みを、すべて警察が受けていたらパンクするであろう。しかも、そんな検閲がまかり通ったら、戦前の暗黒社会に逆流だ。言論とは、よい言論も悪い言論も醜い言論も含めて、言論なのである。明白かつ現在の危険が証明されない限り、むやみに言論を統制してはならない。▼いま必要なことは、犯罪の抑止力低下を社会全体で真剣に考える議論の場づくりである。安易に、警察や自警団や防犯カメラの設置に頼っても、安全な社会は実現できない。容疑者自身の悩みや怯えに、ヒントはあると思う。「彼女さえいたなら」という愛情に飢えた気持ち、友達がいないことへの悩み、いつクビ切りにあうか分からない労働環境、彼の犯罪は許せないが辛さは理解できる。社会に「優しさ」を取り戻すしか道はない。人の心を育む地道な教育を創造し、小泉─竹中の謀議によって造られた貧困を根絶させる、そのための政策転換しかないと思うのだが。
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NO.473 08年6月号
「国を憂うることと国を愛することは違う」
▼北京オリンピックに向けた聖火リレーが世界各国で展開され、長野市の沿道も中国国旗を掲げる留学生たちで埋め尽くされた。チベット系の人や民主化を支援する者もいたが、圧倒的多数は漢民族である。母国でのオリンピック成功を願い、国旗を手にして応援する気持ちはある程度理解するが、チベットの自治や民主化要求を粉砕し、その声を凌駕しようとする行動は、軽蔑に値する。▼歴代の首相が靖国神社を訪問したとき、中国の人たちはこれに強く反発した。「日本の歴史認識は間違っている」、「侵略戦争への反省がない」という声は、まったく異論がない。一人の日本人として、首相の愚かな行動を恥ずかしく思うし、相手の立場を思いやれない日本政府に対して強い怒りを覚えた。しかし、いま中国人たちは、日本政府の不勉強と同じレベルで、まったく歴史を学んでいない。共産党一党独裁政権のなかで、正確な歴史教育が行われてこなかったことは事実としてわかるが、少なくとも日本の大学で学んでいる留学生が、チベット侵略の歴史を知らないとは言わせない。日本の市民派の知識層に、欧米の一部保守勢力が扇動しているチベット民主化闘争に与すべきではないという論調があるが、自治や人権の問題をイデオロギーで判断してはならない。一部に事実があるとしても、中国政府がチベット人民を弾圧していることは明らかあり、批判を控える理由にはならない。▼先般、四川省で起きた大地震でも、中国政府は海外からの人的援助を拒否した。発生から72時間を過ぎようとした頃、少数の警察官と消防士の受け入れを決めても焼け石に水である。中国のテレビ局は、人民解放軍が瓦礫の山から人々を救出する映像と、温家宝首相が被災難民を激励する姿を繰り返し放映していた。生死の狭間で救出活動を続ける最中に、首相が視察する必要がどこにあるのだ。邪魔にしかならない偽善行為を、何の疑問をもたずに見ているとすれば、あいた口がふさがらない。▼中国の人たちに言いたい。「これでは日本政府を批判できなくなってしまうよ」と。鈴木邦男さんのお言葉を借りるなら、「国を憂うることと国を愛することは違う」のだ。人の命よりも面子や体制を考える中国政府は、「憂うる対象」ではあっても「愛する対象」ではないことに気付いてほしい。
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NO.472 08年5月号
権力の横暴に歯止めを
▼2006年3月、高知県内の国道でスクールバスに白バイが衝突して警官が死亡する事故が発生した。昨年10月、高松地裁は被告を業務上過失致死・禁固1年4ヶ月と判示し、控訴審も被告の主張を退けた。この事故の検証は、先日のサンディープロジェクト(テレビ朝日系列)でもなされ、久しぶりに評価できる報道内容であった。▼警察は、時速10キロで走行していたバスに時速60キロの白バイが追突して引きずられたとして、1メートルのブレーキ痕の実況見分調書を提出した。一方、普段から猛スピードで白バイの追跡訓練を見ている付近の住民は、「停車中のバスに100キロ以上で白バイが突っ込んだ」と証言している。また実験の結果、時速10キロでは1メートルのブレーキ痕はつかないことも判明した。しかし裁判所は、ありえないブレーキ痕を証拠採用し、さらに「バスは止まっていた」という証言は「第三者だからといって信用できるわけではない」として退けた。(林眞須美さんの裁判では、裁判所は「身内の証言は信憑性がない」というのだが…。)証拠を捏造してまで守ろうとする警察の面子には驚くが、裁判所もここまで平気で嘘をつくようになったとは嘆かわしい。
▼立川テント村のビラくばり判決では、「自衛隊官舎に立ち入ることは、管理権を侵害し私的生活の平穏を害した」、「表現の自由は無制限ではなく、他人の権利を害する手段は許されない」として、最高裁は上告を棄却した。しかし公判過程で、住民からの被害届けは警察が用意したものであることが明らかになっているではないか。「平穏な生活が侵害された」など片腹痛いし、判決の内実は「戦前の家父長の住居を侵害した住居権説」に依拠した前近代的なものである。ここまでくると、裁判官の知的レベルを疑う。
▼両方の事件とも、警察・検察と裁判所が一体となり、人身や言論の自由を剥奪したものだが、そろそろ権力の横暴に歯止めを掛けていかないと、取り返しのつかないことになってしまう。裁判所までもが市民の人権を弾圧する機関になってしまったら、もはや民主国家ではない。一刻も早く、権力のよどみを除去しなくてはならない。
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NO.471 08年4月号
▼2月26日に東京都北区の路上で、3人の高校生の「大声がうるさい」という苦情が滝野川署に寄せられ、警察官が駆けつけた。警官は少年たちを注意し、一旦はその場を立ち去ったが、約10メートル先で再び路上に座りこんだ。警官は、名前を尋ねても無視したため銃を抜いて立ち退かせた。その直後、少年たちは「銃を向けられた」と署に訴え、事件は発覚した。
▼滝野川署は、警官を特別公務員暴行陵虐容疑と銃刀法違反(所持)で書類送検し、停職一ヵ月の懲戒処分にした。事件発生直後より、処分の軽減を求める嘆願書が地元住民から提出され、また「警官をバカにした少年の行動は許せない」、「誰が少年を注意するのか」など、警官を擁護する電話やメールが数多く届いているという。ネット上の発言の多くも、警察署の対応を非難するものである。
▼昼夜を問わず大騒ぎをする少年や明け方まで暴走行為を繰り返す若者がいることは事実であるし、安眠を妨害されて困っている住民が相当数いることも想像に固くない。しかし、「悪餓鬼がうるさいからピストルで追っ払ってもかまわない」という世相は、いかがなものかと思う。少年たちに注意しても聞かないのであれば、東京都迷惑防止条例や暴騒音条例、あるいは軽犯罪法や時には刑法の傷害罪も視野に入れ、正当な法律的根拠をもった方法で対処すればよい。住民の中には、「少年に注意したとき反抗的な態度を取られたので、警官に共鳴できる」という意見があったが、銃口を向けて云う事を聞かせることに正当性を見出すならば、野蛮な銃社会を肯定することになる。さらに言うならば、「自分は銃しか頼れない弱い人間ですよ」と、自ら証明したことにもなる。裏金を告発した仙波巡査部長のような強さと優しさを備えた警察官であれば、拳銃も警棒も使わずに少年たちに言い聞かせたことであろう。
▼虚勢を張った「偽りの強さ」を支持する空気を、非常に怖く感じる。軽軽に銃をかざしてしまった警察官に反省を促し、「餓鬼どもからも好かれるお巡りさんになろうよ」と諭すのが、大人の社会ではないだろうか。政界でも、石原都知事や橋下府知事のような唯我独尊の「強さ」は、見ていて気分が悪くなるし、お気の毒な性格だと哀れんでしまう。
▼最後に、親しくさせてもらっている三浦和義さんの件について一言。「日本で無罪が確定したからといって、アメリカへの捜査協力を拒否する理由にはならない」という鳩山法相や町村官房長官の発言は、法治国家を崩壊させてしまう。これらの発言も、強い者にこびる「偽りの強さ」なのであろうか。
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NO.470 08年3月号
規則を守ろうとしない人たちへ
▼規則とは、守るためにあるのだろうか、破るためにあるのだろうか。昨年10月、神奈 川県個人情報保護審査会は、県教育委員会が「君が代」不起立教員の氏名を収集するこ とは、個人情報保護条例が禁止する「思想信条に関する個人情報」にあたると答申し、 「情報収集は不適当」と判断した。しかし県教委は、2月4日に「今後も氏名収集を継 続する」との方針を明らかにした。審議会は「不起立は思想信条の表れ」であると判断 し、委員の多くも憲法19条に反することを指摘しているが、県教委は「必要な服務情報 の収集にすぎない」と、平然と答申を無視した。政治におもねった行政裁量が許される のならば、審議会など無用の長物と化してしまう。 ▼2月2日から開催された日教組の「教育研究全国集会」は、全体集会の会場に予定して いたグランドプリンスホテル新高輪が、「右翼の抗議行動によって周辺住民に迷惑をか ける」という理由で、会場使用契約を一方的に破棄した。しかも、その後の仮処分申請 において日教組への会場使用を命令した裁判所の決定をも無視したのである。プリンス ホテルは、「法令を守らないことになるが、企業としての判断だ」と開き直っているが、 裁判所の命令に従わないことがまかり通るならば、ルールなき社会になってしまう。人 に金を借りても返す必要はない、スピード違反でサイレンを鳴らされても止まる必要も ない、「万人の万人に対する闘争」であり、ライオンと羊が同じ檻の中で暮す社会である。 ▼2月11日の建国記念日に街を歩いていたら、大きな日の丸旗を積載した右翼の大型外 宣車が10台以上連なり、80デシベルをゆうに超える音量で「紀元節だ!」とわめきなが ら走行していた。明らかに道路交通法違反であり東京都騒音防止条例違反であるが、交 番の警官は見てみぬふりである。もはやこの国は、法を守る必要はないのだろうか。 ▼夜回り先生の水谷修氏は、自らのエッセイで「社会に規則が必要なのは、弱いものを 守るため」といっている。「皆が自由勝手をしてしまえば、一部の権力や暴力をもった ものが支配してしまう。互いに傷つけることなく共に生きるために規則をつくった」と、 子どもたちに説いている。いま国民は、「消えた年金」に、 「無駄な道路建設」に、「中国餃子」に怒っている。生活や健康はたしかに重要である が、「規則を守ろうとしない人たち」へ、怒りの矛先は向いていない。直接腹は痛まな い、銭金に関係ないから怒らないのだろうか。そうだとしたら、もはやこの国に未来はない。 -----------------------------------------------------------------------------------
08年2月号 処罰欲に駆られた報道の脱却を!
▼2006年8月、福岡市の元職員が飲酒運転により幼児3人を死亡させた事故で、 福岡地裁は危険運転致死罪の成立を否定し、業務上過失致死傷と道路交通法(酒気帯 び運転、ひき逃げ)の併合罪で懲役7年6ヶ月を言い渡した。この判決の日から、メ ディアはいっせいに「被害者遺族が求めた量刑とかけ離れている」と、被告と裁判官 へのバッシングをはじめた。テレビのワイドショーでは、例によって被害者感情を徹 底的に煽りながら、一片の法律知識ももたない司会者が、「正義の味方」面で被告に 鞭打ち裁判官批判を繰り返し、おまけに都合のいい弁護士をゲストに迎えて、一方的 なコメントを繰り返させていた。新聞各紙には温度差はあるもの、基本的には「被害 者感情を受けて新設された同罪の存在意義が問われる」といった、厳罰化の主張であ る。▼刑法208条の2の「危険運転致死傷罪」は、・アルコールまたは薬物により 正常な運転が困難な状態での走行、・制御困難な高速度での走行、・通行を妨害する 目的での危険な高速運転、・赤信号をことさらに無視した危険な高速運転、を故意に おこなった場合を規定している。この罪を刑法に追加しようとした段階で、すでに国 会では適用基準の曖昧さは弁護士出身の議員の多くから指摘されていた。にもかかわ らず、このような不完全な条文を認めたのは、すべての議員が「飲酒運転厳罰化」と いう世論の波に抗すことができなかったからである。一人でも、立法の瑕疵を指摘し 、構成要件を明確化させる必要性を貫ける議員がいたならば、今のような混乱は回避 できたと思う。▼まずは、法律の不備を熟考すべきである。信号無視には故意も過失 もあるだろうが、飲酒に過失があろうはずはない。正常な運転が困難ゆえに罪なので はなく、飲酒運転自体が罪でなくてはおかしいのだ。「ヘベレケに酔っ払うのはダメ だが一杯引っ掛ける程度は許される」といった類の法律こそ、問題である。一方この 罪刑は、「危険運転」行為の重大性に鑑みて定められたのであり、結果の悲惨さや社 会的な法益の保護を理念として立法されたのではないことも、冷静に抑えておく必要 がある。▼今回の事件の場合、危険運転致死傷罪を正確に解釈すれば被告を処罰する ことはできないと判断した裁判所が、検察に訴因変更まで命令したきわめて異例なケ ースである。なによりも世論を背景として、「法律」と「社会的な正義」とをぎりぎ りのところですり合わせた、裁判官としての見識であるといえよう。不勉強なテレビ の司会者が、感情だけで批判できるような薄っぺらな判決ではない。▼メディアの態 度は、明らかに間違いである。あなたたちは刑事でもアンパイヤーでもなく、権力の ウォッチドッグであり在野のオピニオンリーダーたるべきだ。処罰欲に駆られた報道 からは、決して公正で寛容な社会は生まれない。 --------------------------------------------------------------------------- 08年1月号 権力の不法行為に、断を下す機関の創設を
▼権力分立は、なぜ必要なのだろうか。辞典によれば、「国家権力ないし統治機構が、一つ の機関や一個人に集中すると自由の見地から不都合や弊害が生じるので、できるだけ権力を 分立・分散させ、相互の抑制・均衡をはかることによって権力の絶対化を防止ないし回避し ようという思想や機構」とあるが、私たちも一般的にそう理解している。しかし今の日本で は、先人が予想もしていなかった事態が起きている。戦後、事実上の保守一党支配が続くな かで、立法権が十分な役割を果たせず、行政権優位の社会構造ができたまでは予測していた かもしれない。しかし、三権のなかの二権、つまり行政権と司法権が完全に一体化し、癒着 した状態になろうことまでは想定外だったであろう。▼検察が起訴をした刑事事件の有罪率 は99%である。つまり行政が犯罪を認定すれば、司法はほぼ100%追認している。卑近な 例だが、先日、古紙回収業者がごみ集積場から古新聞を持ち去ったことがリサイクル条例違 反だとして20万円の罰金を言い渡された高裁判決があった。これには驚いた。私たちは、ご みを外に出して回収を委託した時点で、無意識ではあるが所有権を放棄しているはずだ。 また、10円にも満たないであろう古新聞一束を失敬したことに、可罰的違法性があるだろう か。民間人は、こんな些細なことでも「犯罪」と認定されるのである。▼一方、権力の不当・ 違法行為はどうだろうか。佐賀県警の警察官が、知的障害をもつ青年に馬乗りになり暴行を 加え死亡させた事件が起きたが、暴力警官の行為は内部でもみ消されている。さいたま地検 熊谷支部の検察官が、拳銃押収事件で暴力団組長とグルになり取引をした行為も「お咎めな し」。しかもこの検事は現在「海外留学中」である。徳島刑務所では、医務官が受刑者に性的 虐待をした事件が31件も報告されているのに、司法当局と法務大臣が結託して隠蔽している。 しかも、これらは実名報道さえされておらず、何の社会的制裁も受けていない。▼行政を監 視するシステムとして、オンブズマン制度がある。そもそも議会の職員の行政監察制度とし てスウェーデンで創始されたものだが、普及するにつれて行政救済・苦情処理的な機能が主 流になってきた。今では、より専門的なオンブズパーソンも存在するが、行政にものをいう だけの制度では、腐敗しきった今の日本社会では無意味のような気がする。民間人は、反戦 ビラを撒いただけで逮捕されるが、侵略戦争に加担をした行政は罪に問われない。マンショ ンへの政党ビラの投函が有罪であるのに、警察・検察・裁判所が極悪非道な行為をしても、 何の罪にも問われないことが殆んどだ。三権分立にプラスして、権力の不法行為に対し明確 に断を下せる、何らかの機関が必要ではないだろうか。
----------------------------------------------------------------------------- 07年12月号 偽ジャーナリストの許されない行為
▼福田首相と小沢民主党代表の党首会談、そこから飛び出た大連立構想、そして小沢党首の辞任、 その二日後の辞意撤回と、壊し屋“小沢の乱”によって政局は大混乱した。新聞もワイドショーも、「何 が小沢を大連立に走らせたのか」という連立話の伏線について盛んに報じた。しかし、「メディアの政治 介入」については、なぜか自重ぎみのようだ。▼今回の大連立騒動は、渡辺恒夫読売新聞グループ 会長兼主筆が仕掛け、中曽根康弘元首相がハンカチを振り、森喜朗元首相がパシリでお膳立てをし、 小沢一郎氏が一人芝居を演じてしまったといえるだろう。小沢は悪魔の囁きを真に受けはめられたの であり、混乱の責任はあるが、今回に限っては「御人好し」の側面もある。ところがナベツネの動きは単 なる政治道楽であり、個人の趣味に呆けて混乱させた責任は大きい。政治ごっこをしたいのならば、 選挙の洗礼を受けてからにしてほしい。「大連立をしかけたのですか」という記者の質問に、「新聞記者 が、君たちにそんなことをしゃべるもんじゃないんだよ。職業が違うよ。それは政治家に聞け」と偉そうに 言ってのけた。「政治介入ではないか」という批判に対しては、「必要かつ妥当なことと考えている」とい う始末、まさに“盗人猛々し”と呆れ果てる。 ▼8月16日の「読売」の社説で、自らが筆をとり「自・民大連立」を熱心に説いたところを見ると、この老妖 怪はよほど「大連立」が好きなようだ。思い起こせば、「読売」は「朝日」と「日経」を巻き込んで、インターネ ット上でのニュースサイトの共同開設と販売の業務提携を画策した。「談合の前科」があったのだ。 ▼社の主張が保守であれ右翼であれ言論市場の中では自由であるが、ジャーナリストを自称する者が、 一千万人読者の背景を武器にして、改憲草案を出したり声高に連立を叫ぶ態度は、まともな感覚では ない。さらに、あろうことか自社のトップに胡麻摺りの提灯記事を書いている新聞は、ジャーナリズム精神 とは最も遠い存在だ。社内の民主主義も確立されていない独裁企業では、権力監視などできようはず がない。▼いま「薬害肝炎」が大きな社会問題になっているが、この事件の調査と取材に寝食を忘れて 懸命の努力をしている「読売」の記者を、私は知っている。真摯な人材も抱えている「読売」だが、老妖怪 に牛耳られた会社の体質には、開いた口が塞がらない。“CSで巨人が敗れて暇になったので政治に口 でも出してみようか”という偽ジャーナリストの行為は、決して許されるものではない。
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07年11月号 日本の「鎖国」政策と少子化問題
▼17年間日本に滞在し真摯に生活しているビルマ人の親子3人が、強制送還される危機にある という新聞報道を、8月下旬に眼にした。「勉強して社会に役立つのがなぜいけない」「店を 任せるほど信用していた」と述べる中学時代の恩師や勤務先の社長の言葉に、人権後進国・日 本への怒りが込み上げてきた。それから一月も経たない9月下旬には、東京地裁で難民認定さ れたビルマ人に対して、東京高裁が一審判決を破棄する非常識な判決を、2件連続してくだし た。取材中の長井健司さんを銃殺したビルマ軍事政権のもとへ帰れと判示する高裁第15民事部 の反人権・鎖国体質には、あきれて言葉も出ない。▼日本は毎年数千万ドルの難民支援を拠出 しているにもかかわらず、受け入れは雀の涙である。1982年からの難民申請総数は311 8人だが認定者は315人、全体の約9割が却下されている。平成に入ってからの10年間は毎 年1名から3名程度であり、万単位で受け入れている欧米とは比較にならない。近年はやや認 定数が上がったものの、昨年難民申請した外国人954人中、認定者は34人でしかない。「難 関」といわれる大学の入試問題と同じで、落とすことに主眼をおいた選考姿勢は、行政にも司 法にも共通する。▼長野市のHPを見ると、「世界地図の中心にあるのは、“赤く塗られた日 本”ではありません。……四方を海に囲まれ、“鎖国”を経験した日本人は外国人から見ると 視野が狭く物の考え方が画一的になりがちといわれます。長野市にも多くの外国人が暮してい ます。一人ひとりが異なる個性や文化をもっている……そのことを理解し大切にしていくこと が豊かな社会を築いていくことにつながる」旨、書かれている。まさにその通りであり、一日 も早く“鎖国”を解かなくてはならないと思う。▼憲法10条の「日本国民たる要件は、法律で これを定める」という規定は、具体的には出生・準正・帰化による国籍取得を定める国籍法に すべて丸投げしているが、この条項は制憲者の意思を超えて、国籍の壁を高くし国民と外国人 を必要以上に区別する反人権的な作用として機能しているように思える。直ちに改憲が必要か 否かは別として、いま立ち止まって考えてみたい。国際手配されているフジモリ容疑者をかく まった国家の不正義な行為は、「?統」がなすべき技だったのか。アフガンやイランなど多く の政治難民を強制送還してきた卑劣な行為は、「民族の?がつながっていない」からなのか。 ▼日本は「少子高齢化」が社会問題になっているが、世界的には人口の爆発的増加が深 刻である。政治難民を日本社会の一員としてしっかり受け入れ共生社会を築くならば、 「少子化」問題など一発で片付くと思うのだが。
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07年10月号 法律をめぐる争いに、「世間」という概念を持ち込んではならない
▼5月27日に放送されたテレビ番組の中で、橋下徹弁護士は「見ている人がいっせいに懲戒請 求をかけたら、弁護士会としても処分を出さないわけにはいかない」と発言し、光市母子殺 害事件で殺人罪に問われた元少年の弁護団に対し、視聴者に懲戒請求を呼びかけた。各地の 弁護士会には、4000件を超える懲戒請求が起こされているという。これに対して弁護団 側の4人の弁護士は、「業務を妨害された」として橋下氏に一人300万円の損害賠償を求め る民事訴訟を起こした。タレント家業に明け暮れる同氏が、公共の電波を個人的に利用して 弁護団を攻撃することなど言語道断であるが、同時にこうした卑劣な扇動に乗って行動して しまう人が多いことも悲しいかぎりである。▼橋下氏は自らのブログのなかで、「弁護士法 上の懲戒事由である『弁護士会の信用を害する行為・品位を失うべき非行』の基準は、世間 の基準だ」と述べている。彼は、どうやら“道徳と常識と法律は必ずしも一致するものでは ない”ことを知らないようである。「汝の敵を愛せよ」、「右の頬を打たれたときは、左の 頬を差し出せ」、といった聖書の道徳規範は、侮辱罪や暴行罪といった法律とは一致しない。 「人は右、車は左」、「20歳未満は禁酒禁煙」は法律であり常識ではない。おそらく、法廷 で弁護団が「強姦は死者を復活させる儀式」という非常識な被告人の供述を伝えたことを指 して「世間の基準」と言っているのであろうが、法律をめぐる争いに「世間」という概念を 持ち込んだならば、中世まで時計の針を戻すことになる。法律を表すフランス語の droit は 「正義」と同じ語源であり、法は世間の道徳と同一視されていたのである。▼また同ブログで、 「弁護人はたとえ全国民を敵に回しても被告人の利益をはかることが職責であるというカビの 生えた古い題目を唱えるだけ」と弁護団を批判しているが、そうであろうか。「犯罪の訴追を 受けたものは、法律に従って有罪の立証があるまでは無罪と推定される権利を有する」という 無罪推定の概念は、世界人権宣言11条に規定される近代刑事訴訟法の鉄則的要請である。橋下 氏の考えはあまりにも薄っぺらで、法律に対する理解が深くない。▼橋下氏は、「刑事弁護人 は世間に迎合して刑事裁判をしてはならない」と記者会見で述べているが、それが分かってい ながら弁護団を糾弾する言動はまったく支離滅裂である。彼はブログの文末で、「私のメディ アでの振舞い、ブログの表現も含めてどうしても許せないという方は、大阪弁護士会宛に懲戒 請求をしてください」と開き直っているのだが、ここまで法律の裏側にある歴史性や人権の普 遍性を勉強していない弁護士は、まさに懲戒に値するのではないか。
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07年9月号 憲法は国家権力を縛るもの
▼8月15日の夜、「考えて見ませんか憲法9条」というNHK番組を見て、「9条改憲」を主張 する人たちは現実をまったく見ていないと強く感じた。自衛隊や警察は国民を守るために存在 していると、本気で思っているのには驚かされた。自衛隊が市民の平和活動を監視する内部資 料を作っていたこと、警察・検察が無実の市民をでっちあげ・えん罪で苦しめていることをど う捉えているのだろうか。▼富山県の強姦事件で服役後に無実が判明したえん罪事件と「志布 志事件」の無罪確定を受けて、最高検は「証拠の吟味が不十分であった」、「自白の信用性の 検討が必要」などといった報告書をまとめた。そして再発防止策として、消極証拠の多面的な 検討、送致前段階の検察の捜査関与、検察官の適正な指揮・指導をあげている。▼あまりにも でたらめな捜査や不祥事が続いているので、さすがの最高検も重い腰を上げたのだろうが、実 は報告書を出した事実を記者発表しただけであり、国民に対しては何も公表していないのであ る。実際、最高検のHPにアクセスしても見ることはできない。▼しかも再発防止策について は、まったくの議論のすり替えをしている。真の再発防止策は、・関係公務員の厳しい処分、 ・取り調べの可視化、・代用監獄の廃止である。香川県坂出署の警察官が取調べ中の少年に暴 力を振るった事件では、警察官は単なる懲戒処分で起訴猶予になった。こうした警察・検察の 身内に大甘な体質が、次々に不祥事を生む要因なのだ。また警察は、被疑者を取り調べる際に 録画や録音を用いることを頑なに拒否している。後ろめたいことがあるからこの期に及んでも やる気を見せないのであろうが、ヨーロッパ諸国のみならず韓国などアジアの国々もこれに取 り組んでいるのに、日本だけ「捜査に支障をきたす」という理屈はたつはずもない。被疑者の 身柄を警察の留置所内に置く代用監獄問題にしても、日本が批准済の国連人権B規約に明らか に違反している。国際法曹協会や国連人権連盟の再三の勧告も、政府は無視し続けているのだ。 この三つさえ速やかに行えば、市民に見えない報告書でアリバイをつくる必要など何もない。 ▼憲法17条は、公務員の不法行為により損害を受けたときは、その賠償を求めることができる と規定されている。しかし8月15日の番組討論を見るかぎり、9条改憲派の頭の中はいまだに明 治憲法下の「国家無答責の原則」で止まっており、「国家性善説」に支配されている。国務請 求権は、近代憲法の重要な人権のカタログである。憲法は国家権力を縛るものだという認識を、 人びとはもっと強く持つべきだと、終戦記念日の夜に考えさせられた。
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8月号 「性悪説」で考える
▼山口県光市の「母子殺害事件」の主任弁護士を務める安田好弘さんに、銃弾が同封された脅 迫状が届いたという。許すことができない卑劣な行為であるのに、なぜかマスコミの扱いは大 きくない。一方、最高裁から広島高裁に差し戻された控訴審の様子は大々的に報道され、毎日 のように21人の弁護団バッシングが繰り返されている。ワイドショーでは、弁護方針のみなら ず弁護活動自体まで否定するような軽薄なコメントが堂々となされている。ブログなども、 「ネットウヨク」の主張と変わらないものばかりである。▼遺族である本村氏が熱烈に支持さ れるのは、1990年の事件直後に「もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てくれば、私が 自分の手で殺す」と発言したのがきっかけのようだ。多くの人は、被告少年の残虐な行為と被 害者への同情から、あたかも自分のことであるかのごとき「疑似被害者」になってしまった。 また弁護団の多くが死刑廃止論者ということで、刑事被告人の弁護自体が許せないという空気 である。あだ討ちを賞賛する、非常に怖い風潮だ。▼私は、本村氏が「死刑は廃止してはなら ない。殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば 残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心し、そこまで純粋でまじめな人間に生まれ変わ ったのに、その人間の命を社会が奪い取る、その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だと いう真実の裏返しで、はじめて奪われた人に命の重さと尊さを知る、そこに死刑の意義がある」 と述べているのを、ネット情報で知った。▼被害者遺族の心境としては分かるが、メディアが この発言を一般論として肯定し、この価値観を社会に流布して世論を誘導することはあっては ならない。「改心したものを殺すことこそ意義がある」という冷淡で強い応報感情は、遺族と いう属性ゆえに理解されるのであり、社会がこの価値観を共有したなら時代の針を100年戻 すことになる。▼私は「性悪説」をとる。生まれたばかりの赤ん坊はサル同然であるがゆえに、 教育が必要であり育む環境が大切なのだ。死刑をもって犯罪者を抹殺して事足りるのであれば、 「悪」から「善」へ人を導くことも不必要になる。光市の事件を「性悪説」で考えれば、別な 視点を見出せるのではないか。▼最後に「豊川児童殺害事件」逆転有罪判決と「JR浦和電車 区事件」の不当判決について一言。二つの冤罪事件の共通点は、無理やり犯人を作り上げたで っちあげ犯罪だ。明白なアリバイに無罪判決を出せない裁判所は、無用の長物、否、姦悪である。
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7月号 防衛省を告訴しよう
▼自衛隊のイラク派兵に反対する個人や団体に対して、陸上自衛隊情報保安隊が情報を収集し、 市民を監視する内部文書を省内に配布していたことがわかった。陸自幹部は、「派遣される隊 員や家族のことを考えれば、反対運動を調べるのは当然」と開き直り、久間防衛大臣にいたっ ては「抗議活動の風景を撮ることは違法ではない」、「マスコミが取材で写真を撮るのがよく て自衛隊がだめだという根拠はない」と、6月6日の参議院外交防衛委員会で答弁している。謝 罪するどころか正当性を主張し、内部の「犯人探し」にさっそく着手した。言語道断であり、 厚顔無恥としか言いようがない。▼「隊員や家族のために、表現の自由を制約してもよい」と いう理屈は、「イラクは安全だ」と嘘をついて派遣している、というのと同じだ。自衛隊が身 内の隊員を欺いて派兵を強制しようとするとき、市民が注意を喚起するのは当たり前であり、 それを抑圧するのならばすでに日本は民主国家ではない。明らかに憲法21条に違反するもので あり、「国家は憲法によって縛られる」という基本的な原理を、国は再確認すべきである。 ▼防衛大臣は、「マスコミだって写真を撮っているのに、自衛隊が撮って何が悪い」とまで言 っている。“馬鹿も休み休み言え”と言いたい。福島や宮城の住民が、自衛隊のヘリコプター 騒音に抗議する電話をかけたことや、小牧基地に市民9人が派兵中止を申し入れたことを「反 自衛隊活動」としたことは、「私事をみだりに公開されない」プライバシーの権利を明らかに 侵害している。また「承諾なしにみだりに容貌・姿態を撮影されない自由」は、すでに最高裁 京都府学連事件判決でも示されており、その根拠は憲法13条の幸福追求権にあることぐらい、 法学部の学生ならば誰でも知っている。「知る権利」の伝達者であるメディアと軍事権力機関 である自衛隊とを同列に考えている軽薄な大臣など、すぐに更迭すべきである。▼本件は、自 衛隊法の枠を逸脱しているばかりではなく、憲法違反の重大事件である。前田哲男氏が指摘す るように、「有事協力を義務付けた国民保護法制がその時代背景としてあり、抗議活動の監視 は有事法制が作り出した組織としての自然の欲求」という側面が強い。そういう危機感をもっ たマスコミ報道は不十分であり、「読売」や「産経」は虫眼鏡で見なければ気がつかないよう な扱いである。「監視された」側の人は、この事態に沈黙することなく防衛省を告訴してほし い。付随的違憲審査制のわが国では、「違憲訴訟」を提起できる人は限られる。当事者は、根 拠法の違憲確認と公務員の不法行為に対する国賠請求をもとめて闘ってほしい。市民が立ちあ がれば、必ずこの国を正しく導けると信じている。
6月号 在日朝鮮人大弾圧を許すな!
▼在日朝鮮人や朝鮮総連などに、不当な政治的大弾圧が続いている。北海道出身の主婦 の二児が1974年に北朝鮮の工作員に拉致された事件で、警視庁公安部は在日朝鮮留 学生同盟中央本部など4箇所を家宅捜索した。容疑は、33年も前に発生した「国外移送 目的略取」である。警察は、事前に捜索情報をマスコミに漏洩し、警察官と朝鮮人団体 の関係者がもみ合う映像を撮らせ、悪意をもって排外主義を煽った。33年前の罪が問え るのであれば、60数年前に朝鮮人を拉致してきた日本の拉致担当者の責任は、なぜ問わ れないのか。「拉致」が罪であることは、国や民族に関係ないはずである。▼昨年の11 月27日、甲状腺がんと婦人病の手術を受けた75歳の在日朝鮮人女性が、祖国訪問に際 し薬を持参したことが薬事法違反に当たるとし、女性の自宅や朝鮮総連東京都本部など が家宅捜索された。当局は、栄養剤が生物兵器に転用されるとか、肝臓の薬が核施設労 働者の治療薬であるとか、子どもじみた言いがかりをつけている。千歩譲って薬事法違 反だとしても、老婆一人を逮捕するのに100人以上の武装機動隊が必要だろうか。 ▼本年2月5日、札幌地検と北海道警は、ススキノにあるジンギスカン店が、売り上げを 少なく見せかけ数千万円を脱税した容疑で、経営者と経営者が幹部を務めていた朝鮮総 連北海道本部など10箇所を捜索した。こうした積極摘発の方針について、警察庁長官漆 間巌の記者会見(1月18日)での「拉致被害者の帰国に向け、北朝鮮に日朝間の話し合 いをさせるのが警察の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について『ここまでやられる のか』と相手が思うように事件化して、実態を明らかにするのが有効」という発言を、 「日経」は無批判で垂れ流している。外務省「アジア大洋州局」は、いつから警察庁の 所管になったのか。日朝間の対話の促進を、誰一人として警察になどお願いしたことは ない。▼対米追従のエセ右翼で極端な排外国粋主義者である安倍晋三を総理に選んでし まったことが、ここまで歪な社会を生んでしまった。しかしもっと私が恥じるのは、朝 鮮人が大弾圧されても、見て見ぬふりをしている日本人の存在である。ナチスが共産主 義者を弾圧したとき、自分は共産主義者でないから無関心であった。労働組合を弾圧し たとき、組合員でないから無関心でいた。ゲイを槍玉に挙げたときも、自分はゲイでな いから黙っていた。ユダヤ人が弾圧されても、見てみぬふりをしていたら、ゲッシュタ ーポ(国家秘密警察)が玄関をノックした。いま、そういう日本になりつつあるのがと ても怖い。
---------------------------------------------------------------------------- 07年5月号 都知事選の結果でわかるリテラシーの低さ
▲統一地方選挙が終わった。なんといっても驚いたのは、“天王山”といわれた東京都 知事選挙で、4年前に300万票を獲得して圧勝した石原知事が、今回も280万票を えて完勝したことである。金にまつわる多くの不正や弱い者に対するさまざまな差別発 言を、東京都民は許したのであろうか。石原知事は当選後のインタビューで、「一部の メディアの根も葉もないアンフェアーなバッシングを受けた。しかし都民の知的レベル は高い。良識を示してくれた」と述べているが、はたしてそうであろうか。▲開票日の 翌日、新聞にはさまざまな「街の声」が載っていた。私は、50歳のある女性会社員の 「声」を読んで、我に返る思いがした。「石原さんのはっきりした、ワンマンのところ が気に入っている。リーダーシップをもってやってくれるといい。五輪誘致の話も夢が あっていいじゃない」という意見である。これが一般的な都民の気持ちなのであろうと 感じた私は、とても暗い気持ちになった。石原氏がワンマンであることは、指導力があ るということに通じるものではない。リーダーシップとは、人の意見に耳を傾け、全体 を集約して統率することである。石原知事の感情的なものの言い方や態度は、単なるわ がままであり独断専行以外の何ものでもない。また、歯に衣を着せない彼の発言を賞賛 する多くの人たちは、自分には言えないことを代弁してくれる知事に、おそらく憧れの 気持ちを抱いているのであろう。自らは権力にプロテストできずにいながら、代わって 言ってくれる人を求めている人が多いとすれば、非常に怖いことである。▲政治家は、 選挙の際に「国民の良識的な審判であった」とよく口にするし、マスコミも「市民の政 治意識の高さが示された」などとよく解説する。しかし私は、まだまだ日本人は政治を 見る眼が養われていないと感じるし、政策中心に政治を選択する力は成熟していないと 思う。知事選の争点であったオリンピックの誘致、あるいは築地市場の移転にしても、 多くの都民は賛成していない。だが結果において「石原圧勝」ということは、都民は個 々の政策では判断していないということであろう。また国政選挙においても、マニュフ ェストよりも党首のイメージで政党を選択しているのが実態のような気がする。▲石原 知事は「都民の知的レベルは高い」と言ったが、私は素直に同意できない。教育現場で 疲弊し苦しむ教師たち、「ババア」と差別された高齢者、犯罪者扱いをされたアジアの 人びと、アイデンティティをもてない者とバカにされた障害者、こうした方がたの胸の 痛みに思いを馳せられる都民でなくてはならないと思う。一人の都民として、「もっと ポリティック・リテラシーをもとう」と呼びかけたい。
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07年4月号 松岡大臣、浄水機は光熱水費ではないですよ!
▼松岡農水大臣が、事務所代や電気水道代がかからない議員会館に資金管理団体を置き ながら、2001年から2005年までに2800万円もの光熱水費の支出を収支報告 していたことが問題となっている。光熱水費がかかった理由として、3月5日の参議院 予算委員会では「ナントカ還元水や暖房とか、そういうものも含まれている」と詭弁を 弄しているから呆れ果てる。▼多くの政治家は、資金管理団体、政党支部、複数の個人 後援会などさまざまな政治団体をつくり、それぞれを使い分けながら団体・個人からの 政治資金の受け皿を確保している。各国会議員に与えられる議員会館は、基本的には日 常の「立法・政策活動の便宜」のために供与されているものであり、金集めの道具とし て国から支給されているものではない。したがって、院の申し合わせとして個人後援会 などの政治団体を会館に置くことは認められておらず、資金管理団体にのみ限定して事 務所の所在地とすることが許されているのである。▼参議院で追及された松岡大臣は、 当初「確認して必要な範囲で答える」と答弁したのだが、さらに追及されると答えにつ まり「ほかのことを質問したらどうか!」と逆ギレする始末である。そもそも国会での 答弁は、国民の代理人である議員の質問に対し、正確・誠実に答弁する責務がある。国 民をバカにした答弁は小泉前首相の十八番であったが、責務を放棄した答弁には、野党 は審議拒否をしてでも毅然とした姿勢を示してほしい。▼また、検察の動きにも注目し たい。本件を立件しないとしたら、日本は法治国家ではなくなるであろう。議員会館は 冷暖房が完備しており、しかも民主党議員の調査では浄水機など設置されていないこと が判明している。そもそも浄水機は光熱水費ではないし、言い逃れはできないはずなの に、虚偽の答弁がまかり通り、虚偽の記載が許容されるならば、もはや日本に正義はな い。「嘘吐きは泥棒のはじまり」という諺があるが、「嘘吐きは大臣のはじまり」であ る。鈴木宗男氏や辻元清美氏の逮捕など、この間国策捜査ばかりに熱をあげてきた検察 であるが、「松岡氏は軽薄で毒にも薬にもならないから生かしておいてもよい」とでも いうのであろうか。憲法14条「法のもとの平等」とは何か、あらためて問われる時代で あろう。