ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌

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2015年3月号・編集手帖

▼今の日本は実に恐ろしい。政治家も、官僚も、国民も、来るところまで来てしまった感がある。共産党の池内さおり議員が、「イスラム国」によって湯川さんが殺害された直後、「こんなにも許せないと心の底から思った政権はない」と、命を軽んじる安倍政権をツイッターで批判した。しかし、志位委員長からたしなめられたのか、翌日このツイートを撤回してしまった。池内議員のどこがいけないのか。「イスラム国」が悪いことくらい誰でもわかっているが、では悪い輩から邦人を救出できなかった首相を許せるのか。政府は、本気で救出しようとしなかったではないか。共産党までもが、権力がつくったこの「空気」に抗わないのか。実に虚しい。
▼高村正彦自民党副総裁は、殺害された後藤健二さんに対して「政府の警告にもかかわらずテロリストの支配地域に入ったことは、どんな使命感があったとしても蛮勇と言わざるを得ない」とぬかした。蛮勇とは、後先を考えない野蛮な勇気のことだ。平和と人権の重みを私たちに伝えてくれた立派なジャーナリストに対して、礼を失するにも程がある。この大問題発言を看過している大手メディアは情けなさすぎる。シリアに入って良い記事を書いた朝日新聞などは、この無礼な発言をもっと取り上げて糾弾すべきではないのか。
▼2月7日、シリアへの渡航を計画していたフリーカメラマン・杉本祐一さんが、外務省職員からパスポートを取り上げられた。自宅を訪れた職員に、返納に応じなければ「逮捕する」と言われたという。こうしてジャーナリストの取材を妨害し、紛争地域の実態を国民の目から遠ざけることが、安倍政権の真の狙いである。菅官房長官は、「海外の邦人の安全確保は政府の重要な責務だ」と言ったが、ならば後藤健二さんが拘束された昨年11月の段階で、なぜ身代金の要求に応じなかったのか。口先三寸で、いい加減なことを言わないでもらいたい。
▼世論調査によれば、今回の人質事件での政府の対応を評価する人は6割に上るという。事件の経過や本質を見ることなく、「テロとの戦い」「テロに屈しない」と言われれば、何でも受け入れてしまう国民の「素直さ」には驚く。多くの日本人は、「テロ」という言葉に惑わされているようだ。「テロ」とは、暴力による恐怖を利用して政治的な目的を達成する行為である。思い起こせば、一昔前の日本はテロ国家であった。二十歳にも満たない青年を、国家の命令によってゼロ戦で突っ込ませた特攻隊の戦法は、立派な自爆テロである。この国が再びテロ国家にならないように、今こそ制御不能の安倍政権を正面から叩き、集団的自衛権の行使と「積極的平和主義(=積極的戦争主義)」を阻止しなければならない。二度と未来ある若者の命を犠牲にさせてはならない。

2015年2月号・編集手帖

▼世界中のジャーナリストや研究者で組織する「国境なき記者団」は、各国の報道の自由のレベルを評価した「報道の自由度ランキング」を毎年一回発表している。2014年の日本の順位は180か国中59位という低さで、それはノムヒョン政権で民主化した韓国、李登輝政権で民主化した台湾よりも低い。もちろん、報道の自由度と民主主義の深化の度合いが完全にイコールとは言えない。しかし、報道の自由が充分に保障されていないことは、市民の知る権利も享受されていないことを意味するのだから、それは民主的国家を形成するうえで基礎要件となる選挙権がまっとうに行使できない結果になる。その意味では、「報道の自由度民主主義の水準自由と人権のレベル」と理解してもいいと思う。
▼日本の民主主義なんてこの程度のものか、と感じる出来事が起きた。自民党は、辺野古新基地建設に反対して沖縄県知事に当選した翁長氏を、沖縄振興予算を審査する党の会合に招かなかった。政府も、上京中の翁長知事に対して、首相、官房長官、外務大臣、防衛大臣、農水大臣、すべて面談を拒んだ。来年度の沖縄振興予算は、400億円削る意向だという。民意など何とも思わない、自分の言うことを聞く者しか受け入れないという、およそ民主主義社会とは縁のない輩が今の日本の政権を担っている。
▼もう一つ、司法においても日本社会の後進性を如実に示す判断があった。名張毒ぶどう酒事件での再審請求の棄却である。犯行に使われた毒物の違いや酒瓶の蓋に付いた歯型の証拠能力など冤罪の可能性が十分あるのに、裁判所の面子だけを重んじて請求を棄却した。人の命など何とも思わない司法の冷淡さに、この国の怖さを感じる。それは自由や民主主義以前の問題であり、おそらく社会の閉鎖性からきている病理だと思う。奥西さんが犯人でないことを知っているのは検察官や裁判官だけではなく、葛尾の集落に住む、あるいは住んでいた地域住民自身であろう。私たちは、無意識ではあろうが自から野蛮な権力者をつくってしまったのであり、自ら閉鎖的な社会を形成してしまったのだと思う。
▼名張事件の鈴木弁護団長は、「証拠を隠そうとする検察と、無罪に繋がる新証拠を潰そうとする裁判所が一体となって動いた」と批判した。検察の証拠は私たちの税金で集められたもので、証拠開示など当たり前なのに、世論は動こうとしない。痴漢冤罪を見れば分かるように、私たちは常に被告になりうる立場なのだ。「他人事」で済ませてはならない。
沖縄の問題もそうである。沖縄を兵糧攻めにすれば大和の言いなりになると考えている権力者に対し、「そうはさせない!」と、我々もヤマトンチューも心意気を見せようではないか。

2015年1月号・編集手帖

▼いま、「法の支配」が音を立てて崩れようとしている。哲学者の国分功一郎氏は、「安倍政権は民主主義を何とも思わず、法の支配が危険にさらされている」と警鐘を鳴らしている。「閣僚が集まって15分くらいで書類にサインしただけの閣議決定という手続きで憲法がないがしろにされつつある。憲法解釈の責任者は自分だと発言し、改憲が難しいなら手続きを変えてしまえばいいという話まであった。法の支配という基本的な理念への敬意や恐れがなくなっている」(東京新聞 2014年12月20日)という指摘は、まさに的を射ている。
▼法の支配rule of lawとは、王権など専断的な国家権力の支配(人の支配)を排し、統治権力を法(基本法)により拘束することであり、被支配者(市民)の自由や民主主義を擁護しようとする立憲主義に基づく基本原理である。他方、法治主義という考え方がある。これは、統治者=支配者は法を守らなければならいのは法の支配と共通するが、法の内容が問われることはない。戦前の治安維持法のように、「悪法なりとも法である」に通じるのである。
▼ニューヨークタイムス紙は、「歴史修正勢力に迎合している」と、安倍首相を厳しく批判する社説(12月4日)を掲載した。安倍の歴史修正主義は、大多数の研究者が積み上げてきた歴史の研鑽的事実を捻じ曲げ、自虐史観というレッテルを張って嘘を流布しているのであるから、「王様がこう言ったのだから歴史の教科書もこう変える」という、人の支配への逆戻りである。
また、安倍はこの間メディア各社の幹部と頻繁に夜の宴会を共にしてきたが、これは違憲の悪法をつくっても批判にさらされないための条件整備であり、人の支配を目指す露骨な根回しである。
▼ネット上で面白い実話を拾うことができた。ある小学校で、掃除当番をさぼった生徒に汚れた雑巾で顔を拭かせることがクラスの多数決で決まった際に、担任の教師は「多数決なんだから仕方がない」と言ったそうである。おそらく、この教師の頭の中には形式的な法治主義の考えしかなく、法の支配という民主主義・立憲主義の根源的な思想がまったく理解されていない。この二年間で安倍が行ってきた秘密保護法の強行採決や集団的自衛権の閣議決定は、このバカ教師と同じ思考回路なのである。
先の総選挙で、国民は無意識のうちに「人(=安倍)の支配」に力を貸してしまった。「あの時はそんなつもりじゃなかった」と言っても、あとの祭りなのである。

2014年12月号・編集手帖

▼本誌547号で「アホノミクス」を斬っていただいた浜矩子先生が、東京新聞「時代を読む」(11月16日)で、実に的を射たコラムを書かれていた。今回の大義なき解散に関して述べるなかで、歴史上の偉人・賢人の言葉を紹介している。「有権者は賢い」とか、「有権者を甘く見てはいけない」などと、とかく選挙民に媚を売るようなコメントをする評論家が少なくないなかで、浜先生の言葉は有権者に対する実に厳しい警告だと感じた。
▼まず、真っ先に目にとまったのは、アメリカの論客・ゴア・ビダールの「言葉は人を惑わせる。そのおかげで、彼らは選挙時に大真面目で自分たちの利害に反する投票行動をとってしまう」という警句である。2005年の「郵政選挙」で、格差・貧困に苦しむワーキングプアの人たちが、小泉・新自由主義路線を選択したことを直ぐに想起した。第5共和制前のフランスでも似たような現象があったと聞いた記憶があるが、なぜか人は表面的な言葉に惑わされ、熟慮せずに自身とは真逆の立場の意思表示をしてしまうことがあるようだ。
▼次に、古代ギリシャの悲劇作家・エウリピデスの「言葉は甘く、心は邪悪な者に大衆が丸め込まれてしまうと、国家は大惨事に見舞われる」という言葉である。3・11後はじめての国政選挙であった昨年夏の参議院選挙は、原発問題が真剣に問われることはなく、「株価!株価!」とアベノミクスに浮かれ、驚くことに福島選挙区でさえ自民党が勝利したのだ。
▼最後は、プロイセン・ドイツの鉄血宰相・ビスマルクの「人びとが最もウソをつくのは狩りの後、戦時中、そして選挙の直前だ」という言葉である。前回の総選挙のとき、自民党は「ブレない。ウソつかない。TPP断固反対。日本を耕す!!自民党」というポスターを張りまくった。「消費税は社会保障に使う」と言っていた。「自衛権の解釈を変える」とは言っていなかった。市井の民がウソをついて他人に損害を与えれば不法行為や詐欺罪に問われることさえあるのに、永田町の住民にはそれが通用しない。
▼12月14日の総選挙は、消費税引き上げ延期を口実にしてアベノミクスの破綻を隠す「経済失策粉飾」解散に審判をくだす日である。この選挙を安倍の思惑通りにおわらせてしまえば、今以上の極右路線を正当化させる理屈を奴さんに与えてしまう。
イギリスの生物学者・トーマス・ハックスリーは、「鎖に繋がれて正しく歩むよりも、自由のうちに誤って歩むほうがましである」(『生涯と書簡』)と述べている。為政者は自分たちの考える〝正義〟を根拠に市民を弾圧するものである。積極的平和主義という美名のもと、秘密保護法制という治安維持体制のもと、これ以上私たちの自由が奪われないよう熟慮して投票しようではないか。

2014年11月号・編集手帖

▼「イスラム国」に参加するためシリアに渡航しようとしていた北海道大学の学生が、私戦予備および陰謀の疑いで、ジャーナリストの常岡浩介氏とイスラム法学者の元大学教授とともに警視庁公安部の家宅捜索を受けた。初めて適用された同罪だが、一連の警視庁の動きには法治国家として強い違和感を覚える。
まず、「イスラム国」は統治組織体としての外国とは認められず、外国の一地方または特定の外国組織と見なされるであろうから、「外国に対して私的に戦闘行為をする目的」という構成要件を満たすものではない。また、兵器弾薬の準備など私戦を実行するための陰謀もない。要は、事情聴取―家宅捜索―メディアへの情報提供という巧妙な一連の流れを見れば、今国会に提出予定の「テロ資金凍結法案」を円滑に通すため、国際社会の要請を口実として仕立て上げられた警察当局のたちの悪いパフォーマンスである。
▼同法案は、日本国内でテロに関与する虞のある人を対象に、その資産を凍結することを目的としている。問題はテロリストの定義だが、草案では「公衆等脅迫目的の犯罪行為を行い、行おうとし、または助けたと認められ、かつ将来さらに行い、または助ける明らかな虞があると認めるに足りる十分な理由がある者」とされている。これでは、誰が誰をテロリストだと判断するのか。脱原発デモをテロと同列に扱っている石破茂や高市早苗が政府・与党の幹部である限り、いくらでも恣意的に解釈できる。労組や市民運動の活動家が標的にされる蓋然性は極めて高いであろう。
▼もう一つ疑問なのは、「イスラム国」に参加するのが違法というのならば、反政府勢力「自由シリア軍」に参戦しようとして「イスラム国」に身柄を拘束された湯川遥菜さん(民間軍事会社ピーエムシー)は、なぜ私戦予備に当たらないのか。確かに、現行法には私戦の実行を処罰する規定はないが、それは法律制定時に私的集団が国を相手に戦うことを想定しなかっただけである。だが、日本の国家意思によらず組織的な武力行使を企図していること、兵員の調達など私戦を行う準備行為をしていること、私戦を実行するために複数の者が社内で謀議を行っていると思われるので、北大の学生よりもよほど犯罪の構成要件を満たしているのではないだろうか。
▼10月7日「ワイド!スクランブル」(テレ朝系)で、夜回り先生・水谷修氏は、「イスラム国が良いか悪いかは別にして、本人が行きたいというのであれば日本のパスポートを捨てて行けばいい。マラソンをやりたくて国籍を捨てた人もいる。20歳を過ぎれば選択の権利がある」と発言し、当局のやり方に強い違和感を示した。私はテロにも戦争にも反対だが、理論的には水谷先生に同意する。「イスラム国」の残忍さばかりを強調する報道の裏側で、共謀罪を視野に入れた公安当局による新たな治安立法が着々と進んでいる。

2014年10月号・編集手帖

▼暑い季節が終わってすっかり秋めいてきたが、このまま看過してはいけない夏の出来事がある。2011年に須磨海岸で「タトゥー禁止条例」が施行されたのに続き、今年は逗子海岸でも飲酒、音楽、BBQ、タトゥーの禁止が条例化された。市は、「家族連れが来にくい」「子どもが恐がる」といった理由を挙げているが、要は「刺青=ヤクザ」という先入観であろう。須磨に関しては、4年前に7名の若者が合成麻薬で逮捕された事件が起きたことで、「タトゥー=クスリ」というイメージが形成されたようだ。
▼私は、決してタトゥーを奨励する立場ではない。むしろ、C型肝炎のリスクを考えれば否定的でもある。しかし、日本国憲法によって保障された表現の自由という大切な人権を、公権力が特定の価値観で一方的に規制することなど断じてあってはならない。人権を制約できるのは「公共の福祉に反する」限りにおいてである。公共の福祉とは、人権と人権が衝突したときに生じる矛盾抵触を調整する原理(内在制約説・通説)であり、人権を規制する概念として人権の外部に存在もの(外在制約説)ではない。したがって、大音量の音楽や浜辺でのBBQを規制することには合理性があっても、誰でも自由に立ち入れる海岸にタトゥーを理由として入浜権を侵害することなど到底考えられない。
▼最近は、プールや公衆浴場でもタトゥーの客を規制している。先般、NZの先住民族マオリの女性が入れ墨を理由に恵庭市の温泉施設の入浴を断られた事件も起きた。フジテレビ系の情報番組を見ていたら、「プールでのタトゥー禁止は当然」という視点で、それを取り締まる警備員の「勇敢さ」を報じていた。では、Bzも安室もEXILEも、プールサイドから歌番組の中継ができなくなるではないか!?メディアも世論も、思考停止に陥っている。
▼逗子の隣・鎌倉市では、条例化を避け自主ルールによってタトゥー禁止を定めた。昨年、由比ガ浜、腰越、材木座の三海岸の海水浴客は103万人に対して、騒音苦情は31件、傷害事件は15件であった。たった0・003%と0・0015%である。極一部の問題行動を理由にして過剰な人権制約を許せば、早晩「茶色い朝」はやってくる。マルティン・ニーメラー牧師の有名な自戒の言葉を思い出そう。「ナチスが共産党を攻撃したとき、不安ではあったが共産主義者ではないので行動しなかった。新聞が攻撃されても、ユダヤ人が攻撃されても行動できなかった。最後に教会が攻撃された時には行動したが、すでに遅かった。」今はタトゥーが対象でも、いずれ茶髪もピアスもネイルもミサンガもサングラスまでも、必ず規制する日が来るであろう。

2014年9月号・編集手帖

▼過去に掲載した従軍慰安婦の報道に誤りがあったとして、朝日新聞は一部の記事を取り消した。初報から32年経ての検証記事にはやや違和感はあるが、以前から朝日の慰安婦報道をバッシングしていた安倍首相からの圧力や、ネトウヨからの攻撃が強まっていた昨今の状況を考えると、各方面からの弾圧に抗しきれなかった様子も垣間見える。
▼朝日の訂正記事に関して、自民党の石破幹事長は「地域の平和と安定、隣国との友好、国民感情に大きな影響を与えてきたことだから、議会の場での検証も必要かもしれない」と述べ、朝日の関係者を国会に招致する意向を示した。与党の幹事長がメディアの報道に政治的な介入をすることは、いくら朝日の側に瑕疵があったとしても、憲法上許されないことである。もし本気だとすれば、少数民族を抑圧する中国や言論統制を敷く独裁国家・北朝鮮に匹敵する恐怖政治である。石破氏が「隣国との友好」をそれほど気遣うのであれば、最近の週刊誌や一部の新聞の「反中・嫌韓」報道の方が、よほど非人道的で目に余る。電車の中吊り広告を見れば、「中国が日本にしているいやらしいこと」(SAPIO)、「私は韓国基地村の慰安婦だった」(週刊ポスト)など、隣人の心の傷を深めるものばかりである。
▼街の書店では「嫌韓・反中」本が売れまくっている一方で、「日本人はなぜ美しいのか」(幻冬舎新書)、「負けない日本企業」(講談社)、「日本人に生まれて、まあよかった」(新潮新書)等々、恥ずかしくなるほどの自画自賛本が平積みされている。「神の国」だの「美しい国」だの、妄言を吐いた政治家が何人もいたが、この国から謙虚さとか品位とか心遣いといった感覚が消えたみたいだ。一昔前の日本は、自慢などしなくても他国が認めてくれたし、「平和国家だ」と褒められたではないか。
▼読売新聞は「慰安婦問題は日韓の外交問題となり・・・誤った歴史認識が世界に拡散した」という論調を示したが、実に権力追従的で見識を疑う。朝日は、「一部の不正確な報道を理由として、『慰安婦問題は捏造である』という主張や『元慰安婦に謝罪する必要はない』といった議論は決して同意できない」と主張したが、それは全く正しい。? 韓国のオモニは恥を忍びつつ慰安婦にされた過去を告白したが、慰安所に通った経験を語った旧日本軍兵士の話は聞いたことがない。「事実史観」を「自虐史観」などと恥じらいもなく言い換える女々しい国家が、「美しい国」であろうはずがない。

2014年8月号・編集手帖

▼日本ジャーナリスト会議とマスコミ9条の会が主催した「安倍政治と平和・原発・基地を考える緊急集会」が、開催を予定していた一週間前になって、明治大学からリバティータワーの会場使用を拒否された。学問の自由や言論・表現の自由に最も敏感でなければならない大学が、安倍政権におもねった行動をとった罪は決して軽くない。しかも、それが明治大学であるとは、情けない限りである。当局は、5月に開かれた村山元総理の講演会が右翼の妨害で迷惑をかけたことを理由にしているが、私はその場で自主警備を担っていたので、警察の協力で何ら混乱もなく終了したことを誰よりも知っている。
▼さいたま市の三橋公民館では、俳句教室の会員が選んだ「梅雨空に、九条守れの、女性デモ」という作品が、月報の俳句コーナーへの掲載を拒否される事件が起った。「世論が二つに割れる問題で、一方の意見だけを載せられない」というのが市側の説明であるが、会員の選んだ句が毎月載せられているのに、この句だけが選別されたことは思想・良心の自由の侵害に他ならない。これらの事件はまさに自主規制であり、批判をおそれて自ら自粛してしまう、言論フォーラムにおいて、およそあってはならないことである。
▼昨年11月、むのたけじさんは秘密保護法の制定を前にして次のように語っている。「1938年に国家総動員法が成立し、戦争遂行に従わないと『非国民』と弾圧された。当時、新聞や出版の統制は強まっていたが、実態は自主規制だった」「内務省や軍部は記事の内容にいちいち文句を言わなかったが、新聞社が二重三重に自分たちで検閲するんだ」と。最近、NHKのニュース7や9時のニュースウオッチを見ていても、政治のニュース映像はほとんど安倍首相の国会答弁ばかりで、野党の質問者の発言を放映することは実に少ない。権力への過剰な忖度で自主規制しているメディアが、ジャーナリズムであろうはずはない。NHKは、残念ながら時計の針を戦前に戻してしまったようだ。
▼先日、日産のカルロス・ゴーン社長が9億9500万円の報酬を得ているという報道を目にした。会社の業績が良くても、その果実は役員と株主が得るだけで、従業員はお零れ程度の賃上げである。いや、それさえも抑えられている社員も多い中で、どう考えても庶民の目からは貰いすぎなのは明らかだ。倫理に反する役員報酬に批判が渦巻かないのは、これもメディアの自主規制なのだろうか。権力に媚びへつらい、大資本におじけづくメディアに、私たちは何の価値を見出せばいいのだろうか。

2014年7月号・編集手帖

▼お父さんやお母さんに何回叱られてもいたずらをやめない、やんちゃな子どもはどこにでもいる。しかし、物事の分別がつく年頃になれば、ほとんどのわんぱく坊主は世の中の常識に則した大人へと育っていく。それでも、極一部の人間は、ガキの延長で他人が嫌がることをわざとやりたがったり、人の意見を聞き入れない非常識な大人になってしまう輩もいる。「腕白さ」も子どもなら可愛くも見えるのだが、この国の総理大臣のように、とっくに五十を過ぎたいい大人がそうだとすれば、人格に瑕疵があるとしか思えない。
▼政治家には、当然、信念や理念が必要であるし、それを支える真っ当なイデオロギーや政策立案能力もなければならない。しかし、安倍首相が垣間見せる異様な執念や理解不能な執着心は、単なる偏狭で覇権的なイデオロギーでしかなく、稚拙な政治行動であるとしか思えない。集団的自衛権を急いで認めなければならない必要性を問われても、まともに応えられない人が、その拠り所とするのは「日米同盟」と「積極的平和主義」である。
▼私たちは、今あらためて言葉のトリックを凝視する必要があると思う。以前にも書いた記憶があるが、もう一度、三つの用語の誤用を指摘しておきたい。①安倍氏は、二言目には「日米は大切な同盟関係にある」と言うが、日本とアメリカの間には日米安保条約はあってもアライアンス(同盟)は存在しない。従来、自民党が言っていたように、「日米は死活的に重要な二国間関係」であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。②昨年末に国家安全保障戦略が閣議決定されて以降、彼は「積極的平和主義」という言葉を好んで使うが、本来の意味を知らずに使っているとしか思えない。積極的平和とは、戦争や紛争がないことにとどまらず、飢餓も貧困も差別もない状態を指す言葉である。外国まで出張って行って、能動的な武力介入をすることでは決してない。③「集団的自衛権」とは、一言で言えば、友好国を守るために勝手に武力行使を行うことである。正確には「集団的参戦権」あるいは「連携して戦争をする権限」と言わねばならないのではないか。少なくとも、メディアはそう解説する必要があろう。
▼私たちの国の未来がどうなっていくのか、その重要な岐路に立たされているとき、サッカーワールドカップばかりに熱狂しているこの国のメディアと国民は、本当に大丈夫であろうか。私は野球もサッカーも決して嫌いではないが、若者や子どもたちにとって極めて深刻な事態になっているとき、バカ騒ぎをしている感覚が理解できない。「自分には関係がない」と思考停止している人がいるとしたら、こう申し上げたい。「あなたは自分のことだとは思っていなくても、アメリカの大統領や軍隊は『あなたのことなんて関係ない』と思っているのですよ」と。

2014年6月号・編集手帖
▼私たちは「歴史から学ぶ」のか、それとも「歴史は繰り返される」のか、愚かな政治家が跋扈するこの国では、いま後者が選択されようとしている。ブッシュのペテンに引っ掛かり自衛隊をイラクに派遣したが、大量破壊兵器が出てこなかった後も、日本政府は戦争への関与の総括も検証も反省もしなかった。「歴史から学ぶことができる唯一つのことは、人間は歴史から何も学ばないということだ」というヘーゲルの警告は、まさに集団的自衛権の行使に躍起となり一人芝居を演じる安倍首相のためにあるような言葉だ。
▼作家の保坂正康さんは、「言葉だけで国民をそう思わせる情念的感情的政治は戦前にもあった。5・15事件や2・26事件後、軍事指導者たちが盛んに『非常時』という言葉を使い、世の中全体が『非常時』と思うようになった。しかし、両事件も満州事変も軍が自作自演したものだ」(東京新聞5月16日)と述べている。御用学者で構成する安保法制懇の報告を受けて首相が記者会見をしたのは5月15日であったが、遡ること82年、この日は帝国海軍の青年将校らが首相官邸や立憲政友会本部などを襲撃して犬養首相を暗殺した5・15事件が起きた日である。以後、日本の政党政治は事実上崩壊し、憲政の常道から外れた挙国一致内閣で戦争への道を突き進むことになったのだが、これが「歴史の偶然」だとしたら、取り返しのつかない不幸の再来である。
▼最近、「わが国を取り巻く環境は一層厳しさを増している」といった危機感を煽る言葉をよく耳にする。しかし、朝鮮戦争のときも、東西冷戦が最高潮に達したキューバ危機のときも、カンボジアPKOやペルシャへの湾掃海艇派遣のときも、集団的自衛権の議論はなされなかった。それは、日本に平和憲法があるからであり、今でも議論の前提である憲法9条は何ら変わっていない。脅威を煽る一方で、「地球儀外交」などと称して意味のない外遊を重ねる首相は、危機の根源だとする中国や朝鮮半島へはまったく足を踏み入れようとしない。これでは、外交知らずの単なるオオカミ少年である。
▼ドイツの宰相ビスマルクは、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と述べた。先人の知恵や社会が経てきた変遷に学ぶことなく、自分の人生の殻の中での思い込みで常に独りよがりの行動をしている、反知性的なかの人に聞かせたい言葉だ。それでもなお戦争中毒のアメリカに付き合いたいというのなら、ワイツゼッカー独元大統領の言葉を聞かせてあげよう。「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、また新たな感染の危機への抵抗力をもたないことになるでしょう」。

2014年5月号・編集手帖

▼集団的自衛権の行使容認の根拠を砂川判決に求めている自民党の姿を見て、「高村さん、あなた本当に弁護士資格もっているの?」と、思わず呟いた。安倍晋三レベルの没知性的な政治家ならばいざ知らず、高村正彦氏が本気でそう言っているのは驚愕である。4月17日の「たまたま総研」(モーニングバード・TV朝日系)で、彼は日本をめぐる国際環境の変化と砂川判決が集団的自衛権を排除していないことを理由に、行使できる根拠を説いていた。ことさら国際の緊張を煽って強引に理屈立てをする手法は、政治家の劣化の沸点を超えているのだが、よく考えてみれば、霊感商法で有名な統一教会の顧問弁護士らしい発想なのかもしれない。
▼そもそも砂川判決は、憲法9条が固有の自衛権を否定していないこと、米軍は9条が禁止する戦力にはあたらないこと、高度な政治性を有する日米安保条約の法的判断を統治行為論で逃げたこと、が三本柱であろう。なのに、「わが国が…必要な自衛の措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然」という部分だけを摘み食いして、起訴事実も一審判決も最高裁で争われた論点も無視して、集団的自衛権容認の根拠を捏造しようと躍起になっている。
▼いまメディアでは砂川判決の解釈ばかりが報じられているが、この判決は司法の独立と政治的中立を放棄した憲法76条に違反する代物であることを忘れてはならない。当時の田中耕太郎最高裁長官は、一審の伊達判決が出された以降マッカーサー駐日大使と極秘に会談し、アメリカの意向を忖度して裁判情報を漏洩していたことが、秘密指定を解かれたアメリカ公文書館の資料で判明した。いま、それを新証拠として砂川事件の元被告らは再審請求の準備を進めているところである。
▼百歩譲って、砂川判決が正当だとしても、事件の翌年・60年安保のとき、安倍晋三が最も敬愛する岸信介は、社会党の秋山長造議員の質問に対して「集団的自衛権は日本の憲法上、日本はもっていないと考える」と、明確に答弁している。(1960年3月31日 衆議院予算委員会)
▼これ以上、もう政府に騙されるのはやめよう、と呼びかけたい。4月から消費税率がアップされたが、逆に高齢者の医療費負担は増え、年金保険料は引き上げられ、支給額は逆に減額される。安倍首相は「増収分は年金、医療、介護、少子化対策に使う」と明確に言っていたのに、ペテンにかけられた側からの怒りの声は爆発していない。安心して年をとれない、怖くて病気になれない、若者は戦地に送り出される。平和的生存権が奪われた新たな戦後づくり、それが「戦後レジームからの脱却」なのである。

2014年4月号・編集手帖

▼基本的人権には自由権と社会権があり、自由権の中には精神的自由権(心の自由)と経済的自由権(お金の自由)がある。前者を規制する法律の合憲性を判定する際は、後者に比べて厳格な審査基準が適用されるのが「二重の基準論」である。平たく言えば、深夜における接待営業を規制する風俗営業法より、言論・表現の自由を規制する特定秘密保護法の方が、憲法上の厳しい審査を要するという理論である。それは、「心の自由」が「お金の自由」より優れているというよりも、民主制の過程で最も大切な表現の自由は、一度壊されると修復が極めて困難になるという理由からである。
▼政府の手によって「心の自由」が破壊された日本は、いま民主政治崩壊の危機である。この国の首相は、自らのオトモダチだけを集めた安保法制懇で集団的自衛権の容認を答申させ、忠実な番犬である内閣法制局長官に「首相は安全保障基本法を提出する気はない」と勝手な答弁をさせ、さらに世論の外堀を埋めるためNHKの人事と編集権にまで介入してきた。ついには、「政府の最高責任者は私だ!」と逆ギレ答弁(衆院予算委)をして、立憲主義まで否定する始末。その独裁者ぶりには与党内からもため息が漏れた。
▼この国に甚大な危害を及ぼす危険極まりない要注意人物である安倍氏を、日本のメディアは「保守的」とか「保守色が強い」と形容する。しかし、ヨーロッパ水準では極右である。フィナンシャルタイムズは、「首相が選んだ(NHKの百田、長谷川)両経営委員の考え方により、日本がまともな保守主義と考えられているか、その境界線が試される」と報じている。欧米メディアは、仏FNのルペンや墺自由党のハイダーと同一視しているのだ。
▼小松内閣法制局長官について一言。一般的にはあまり知られていないが、かの有名な外国人の公務就任権で問題となった「当然の法理」(公権力の行使と国会意思の形成への参画は、明文の規定はないが日本国籍の保有が必要と解す)は、最高裁判例ではなく1953年の内閣法制局見解である。その賛否は別にして、国際法しか知らないレベルの小松氏に、判例や学説と並ぶ法律見解を求められる重責など担えるはずもない。共産党議員と睨み合いの喧嘩をする人格も疑わざるを得ない。
▼それにしても残念であったのは、都知事選挙の結果である。原発再稼働や強権的な安倍政治にストップをかけるレファレンダム(住民投票)の要素が多分にあったにもかかわらず、結果的には安倍の政治手法を是認するプレビシット(信任投票)として利用されてしまった。この反省を糧として、市民派・リベラルのみならず、保守の人たちも含めて、極右独裁者に対峙して手を繋ごうではないか.

2014年3月号・編集手帖

▼今から43年前の1971年3月、米FBIの事務所から市民監視に関する極秘資料を盗み出した大学教授夫妻が、自ら犯行に関与したことを先日名乗り出たという新聞記事を見た。FBIが違法な監視活動をしていることには気が付いていたが、何も証拠がないので、暴走を食い止めるために証拠を盗み出すしかなかったという。FBIが市民への人種差別的な監視活動を繰り返していた実態を掴むと、報道機関や政治家にそれの写しを送付した。議会でも取り上げられて、そして世論を大きく動かした。
▼日本でも、すでに自衛隊の情報保全隊が違法な市民監視活動をしていることが暴露されている。また、「国際テロ防
止」を名目に警視庁公安部が行ったイスラム教徒への不当な差別捜査に関する文書がネット上に流出して、裁判にまで発展した。東京地裁は、文書管理に関してではあるが、損害賠償を認めている。秘密保護法では、防衛、外交、特定有害活動(スパイ活動)、テロ防
止を特定秘密の4分野が特定秘密に指定された。国民に対してはスパイ活動を処罰対象にしておきながら、自衛隊や警察当局によるスパイ活動は野放しの状態である。こんなことが法治国家で許されていいはずがない。
▼秘密保護法という名の市民監視法が制定された今、もうすでに去年までの日本ではない。自分にとって都合の悪いことを隠そうとするのが人間の性である以上、組織や機関、あるいは行政に従事する官僚は、これまでにも増して多くの情報を秘密扱いにするであろう。情報が密室に隔離された中から、民主主義が生まれてくるはずはない。それにもかかわらず、日本ではアメリカでFBIへの大きな批難が巻き起こったような声は出てこない。それどころか、新聞ではスノーデン氏の呼称を「容疑者」と書いている。あまりにも、国民もメディアも感性が鈍くなっているのではないだろうか。
▼1月28日の東京新聞「本音のコラム」で、鎌田慧さんはブルガリアの政治家・デミトロフが呼びかけた「反ファッショ統一戦線」を例示し、「戦争に向かおうとしている今、この危機的な状況にもかかわらず、広く手を結んで共同行動に立ち上がらず、あれこれ批判を繰り返している人たちに訴えたい。いったい敵は誰なのか」と述べて、都知事選で分裂した脱原発陣営を言外に批判している。鎌田さんのご指摘は、100%、1000%正しいと思う。もう一度繰り返すが、今日の日本は去年までの日本とは違う。市民の自由を奪う安倍の反動政治は、もう取り返しのつかない寸前まで来ている。戦争が始まってから後悔しても、すでに取り返しがつかないということを、左翼やリベラルを自称する人たちは真剣に考えるべきである。

2014年2月号・編集手帖

▼2010年10月、警視庁公安部外事三課が作成した国際テロ捜査の関連文書がネット上に流出した事件が起きた。個人のプライバシーや信教の自由を侵害されたとして、日本人を含む17名のイスラム教徒が国と都を相手取って起こした裁判で、東京地裁は「警視庁は情報管理上の注意義務を怠った過失がある」として都に9020万円の支払いを命じる一方、当局の捜査については「国際テロ防止のため必要やむ得ない活動」として違法性を認めなかった。この判決に接し、絶望にも近い暗澹たる気持ちが体中を支配した。まさに、憲法に対する「死刑宣告」と言える。
▼一部のメディアは、相当額の損害賠償を認めた判決を「勝訴」と伝えたが、「バカも休み休み言え!」と言いたい。裁判所の言い分は、こうだ。「イスラム教徒自体を問題視しているのではないけど、その中で一部存在する過激派がテロを行い、モスクが勧誘の場になっている。だから、そこに出入りしている人を監視し記録しても、それは宗教から脱退させるような強制ではないので信教の自由を侵害したことにはなるまい。皆さんは宗教活動の情報が収集され開示されることは予想していないだろうけど、テロ防止の観点からは仕方ないんだ」と。
▼こんな屁理屈がまかり通れば、信教の自由も表現の自由も「絵に描いた餅」である。イスラム教の信者であるというだけで、住所、氏名、顔写真、生年月日、電話番号、本籍地、身体的特徴など、ほとんどのデータが徹底的に洗い出され、白日の下に晒された。しかも、捜査当局は謝罪も訂正もしていない。これが通常の民主主義国家と言えるだろうか。警察の違法行為にお墨付きを与えた裁判所の罪は計り知れないほど大きい。「モスクに出入りしていればイスラム過激派かもしれない」という程度の認識で犯罪の予防措置を認めてしまえば、イエスの方舟や統一教会はとんでもない事件を起こしたのだから、「すべてのキリスト教徒を見張れ」という話になってしまう。
▼靖国神社・遊就館は第二次大戦での侵略行為を「アジアの解放」と言って美化している。あの忌まわしい戦争を肯定している神社を堂々と参拝し、歴史を歪曲する安倍晋三こそ社会にとっては危険人物であろう。また彼の狂信ぶりを見れば「宗教って怖いね」と感じてしまうこともある。でも、靖国神社が間違っているからといって、神道の信者すべてがおかしいわけではない。創価学会の執拗な勧誘は気持ちわるいが、学会員や仏教徒が皆悪い人であるはずがない。「デモとテロは同じだ」と言った政治家がいたが、そんな奇異な人が属している政党のなかにも、真摯に「脱原発」を訴える人もいる。政党も宗派も一面的ではない。木を見て森を見ない裁判官は、法の番人とは到底なりえない。

2014年1月号・編集手帖

▼戦後の民主主義社会において最悪の法律が強行可決されてしまった。秘密保護法成立直前にはメディアも頑張り、反対の世論も高まったが、安倍政権の強権的な政治手法で市民の自由と人権は奪い取られた。法案に賛成した議員は、「戦争のできる国」を経た未来の人びとによって、厳しく断罪されるであろう。いま言えることは「自民党・公明党の議員は恥を知れ!」、ただそれだけである。
▼かなり前、マスターコースで勉強をしたときのことをふと思い出し、この悪法について考えてみた。自由権には精神的自由権と経済的自由権があるが、二重の基準論により、「お金の自由」よりも「心の自由」の方が厳格な基準によって審査される。つまり表現・言論の自由を規制する立法に適用される合理性の基準は、厳しく審査されねばならない。では、どういう場合にその自由を制限できるかといえば、「明白かつ現在の危険」と「LRAの原理」(より制限的でない、他の選択しうる手段)である。秘密を漏えいしたことで公務員が責任を問われた事例は過去15年間で5件しかなかったことを考えるならば、近い将来に実質的悪害を引き起こす蓋然性が明白かつ重大で、それを避けるために必要不可欠な法律とは言えないはずであり、「明白かつ現在の危険」は証明できない。行政機関の職員や民間業者に対する適正評価など人権の過度な制約は、 Less Restrictive Alternative基準からしても妥当ではないはずだ。
▼表現の自由の限界を考えるとき、明確性の理論というアプローチがある。そこには、漠然不明瞭な条文は表現の委縮効果を及ぼすため無効という「漠然性ゆえ無効の法理」と、規制の範囲があまりにも広範な場合の「過度の広範性ゆえ無効の法理」という二つがある。仮に、「デモを封じるものでない」とか「取材・報道の自由を妨げない」という政権側の言葉を百歩譲って信じたとしても、テロの範囲の漠然性・広範性、あるいは条文の至る所に「その他」という文言がちりばめられている法律は構成要件の明確性に欠け、意のままに解釈されてしまうので合憲限定解釈は到底できない。よって法文全体は無効である。
▼それにしても、表現の自由に反するだけではなく、近代刑事法の基本のキである罪刑法定主義にも反する法案が、閣法として上程されたのである。つまり、すでに内閣法制局は違憲立法のチェック機能を完全に失っている。法制局と最高裁は、今まで最後の保守の良心だと信じていたが、誤りであった。法に対する信頼を失った社会は、少数テクノクラート支配の暗黒社会である。日本は中国の一歩手前、北朝鮮の二歩手前まで来ている。この法律を廃止するまでは、恥ずかしくてヨーロッパ旅行にも行けない。危機感とプライドをもち、法の廃止に全力を尽くそうではないか.

2013年12月号・編集手帖

2013年11月号・編集手帖

2013年10月号・編集手帖

2013年9月号・編集手帖
麻生発言には、米側も強い懸念

▼「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか」という麻生副総理の発言が波紋を呼んでいる。この「ナチス発言」は、「無知で無教養な失言王のことだから」というレベルでは済まされない。政治家を含む国民の鈍感すぎる感性と、伝えるべきことを伝えていないメディアの責任放棄を、この際きちっと指摘したい。

▼古屋圭司国家公安委員長は、「発言を撤回したのだから一転落着」と言い、橋下大阪市長は「当時のヨーロッパで最も進んだワイマール憲法下にあってもナチスが生まれてきたのだから、改憲議論を心してやるべきと言った趣旨だ」と、麻生発言を擁護している。ネット上には、「メディアが悪意をもって叩いている」「重箱の隅をつつくようなもの」など、発言を支援する書き込みが散乱している。
麻生擁護派は、問題発言の前段で言った「改憲について静かに話し合う」という言葉を、「熟慮しろという意味で言ったのだ」 「悪い例としてナチスを引いただけ」と主張する。しかし「ナチスの手口から学ぼう」と結論したのだから、決して善意には解釈できない。発言は、ナチに抵抗したドイツ国民の歴史を知らない無知を天下にさらけ出したと同時に、少なからずの日本国民がそれに賛同する不勉強さを全世界に発信してしまった。
▼メディアの問題として深刻なのは、①この発言が、集団的自衛権の解釈変更や憲法「改正」を念頭に置いたものであることを伝える姿勢がないこと、②講演の現場を取材していながら、ユダヤ人の人権団体や海外メディアから指摘されてから腰を上げたこと、③発言を伝える日々の報道にぶれがあったことである。とりわけ讀賣は、「ナチスの手口学んだら…麻生発言」(ウェブ版)から「狂騒、狂乱の中で決めるな…麻生副総理」へと見出しを変えるなど、発言の本質を意図的にずらした。蛇足だが、直後に溝手顕正参議院議員会長が、「大変勢いがある首相のもとだと、バカでもチョンでも選挙に通る」と言った発言を、日テレは翌日の昼のニュースで「バカでも通ると言った」と歪曲して報道している。馬鹿と朝鮮人を同列にした言葉を使ったことこそが問題なのであり、読者、視聴者に虚偽の報道をするメディアは、およそジャーナリズムではない。▼麻生発言が飛び出した「国家基本問題研究所」を、メディアは「保守系のシンクタンク」と書いているが、そこは櫻井よし子理事長、石原慎太郎、塚本三郎や改憲派の憲法学者らが理事に名を連ねるウルトラ右翼の集まりである。ニューヨークタイムスは、「安倍政権が歴史認識を見直し、ナチスドイツと結んだ大日本帝国の歴史を、より肯定的に捉えたいと願っているとの不安を裏付けたと思われる」と伝えた。麻生発言には、米側も強い懸念を表明している。

2013年8月号・編集手帖
これ以上暗い社会にするのはやめてほしい

▼参院選挙公示日の7月4日、福島駅頭で行われた安倍首相の演説に対して、「総理、質問です。原発廃炉に賛成、反対?」と書いた段ボールを掲げようとした県内在住の主婦が、私服警察官と自民党職員に詰め寄られ、住所を問われて紙は没収された。ユーチューブで見る限り、まったく穏やかな抗議である。この報道に接して、背筋が寒くなる思いがしたのは私だけではないであろう。さらに、警察官や与党・権力側の人間が市民の表現を弾圧しただけではなく、周りにいる人たちも、そうした言論封殺に対して異を唱えようとしない現実が恐ろしい。再稼働推進の自民党中央と、再稼動反対と言う自民党福島の二枚舌を糾弾できない県民は、すでに2年前の記憶が薄れたのであろうか。

▼6月9日には、渋谷駅前で「TPP反対」の街宣を行っていた市民団体に対して、後から自民党の大型宣伝カーで乗り付けてきた安倍首相が、恥ずかしげもなく「左翼の人たちが騒いでいる」「恥ずかしい大人の代表たちだ」と吼えた。自分に反対するものはすべて「左翼」という言葉でしか表せないボキャ不足の首相が、「福島で演説をするときは皆に黙って聞かせろ」と、党職員に命じたのであろうか。それとも、「総理大臣様の前で庶民が歯向かうとは言語道断だ」と、警察が安倍の気持ちを過度に忖度したのであろうか。前者だとしたら偏差値の低い首相が退陣すれば済む話であるが、おそらく後者であろうと推測する。
▼警察には独自の価値観があるようだ。野田政権が公約違反の消費増税を強行しようとした時、新宿で演説していた前首相は野次とブーイングの嵐に遭遇した。それでも警察は市民を制止しなかったのはなぜか。おそらく、自民党政権でなかったからであろう。警察は善良な市民の味方だと思っている人がいたならば、それは過度な認識違いである。警察が守るべきは権力機構であり、綺麗で画一的な社会をつくるのが任務なのだ。それは、都会で起きる日常の違法職務質問やサミットなどでの警備を思い起こせばわかると思うが、多くの市民はまさに犯罪者扱いされている。
▼福祉活動にも熱心な前ベルギー国王・アルベールⅡ世は、幼稚園を訪問して子どもたちを抱きかかえながら、お菓子を口に入れてもらって触れあう様子を映像で見たことがある。日本の皇宮警察ならば「陛下、私がお毒見を」となるだろうが、権力と市民の距離にこれほどの差があることを恥ずかしく思う。警察が市民の味方になるとは全く思っていないが、これ以上暗い社会にするのはやめてほしい。警察や自民党の皆さんが大嫌いな北朝鮮のような国にしないためにも、オイコラ警官がまかり通る時代に戻してはならない。

2013年7月号・編集手帖
「テロとの戦い」を正当化する方便

▼アメリカ中央情報局CIA元職員のエドワード・スノーデン氏は、「インターネット上の個人情報を不正に収集している米政府の行為は民主主義への脅威だ」と、英紙「ガーディアン」に告発した。彼の勇敢な行動は世界中に議論を巻き起こしたが、米政府は機密漏洩罪などを念頭に「刑事訴追に向けてあらゆる措置を講じる」(FBIのモラー長官)と、香港政府に身柄の引き渡しを求めている。

▼この事件を通して、アメリカの怖さを二つ感じた。一つは、ブッシュ前政権のやり方を批判していたオバマ大統領が、今回は「テロとの戦い」を口実に合法性を主張し、「米国民の情報は対象にしていない」と、大ウソをついていることである。フェイスブックとマイクロソフト社は、昨年後半だけでも1万5千件以上の個人情報の提供を政府から要請されたことを明らかにしているが、それらはすべて外国籍の人たちの情報なのであろうか。
二つ目は、米国民がこの不正な事実を一定程度是認していることである。ワシントンポスト紙の世論調査によれば、政府による個人情報の収集を56%の人が容認し、反対の41%を大きく上回っている。つまり、過半数の人が「彼は英雄ではなく犯罪者」だと判断しているのだ。ちなみに、ネット情報ではあるが、日本でも40%の人が「彼が罪に問われて当然だ」と思っているそうである。
▼モラー長官は、「インターネットと電話の監視は不可欠。これを使っていれば9・11は防げたかもしれない」と語っているそうだ。しかし、それは「テロとの戦い」を正当化する方便でしかない。9・11事件は、アメリカや日本では「アルカイダの仕業」ということになっているが、飛行機が突っ込んでいない第7ビルが完全に崩壊した疑問はまったく解消されていないし、ペンタゴンの損傷がなぜ飛行機の機体よりも穴が小さいのかも不明である。それどころか、9・11の直前に、ハイジャックされたアメリカン航空とユナイッテド航空、ツイーンビルに本社があったメリルリンチの株が不正に操作(プットオプション)されていたことが暴露されている。
▼日頃から中国の人権問題を批判し、安倍首相や橋下市長の「慰安婦」発言も指弾しているアメリカが、わが身が危ないと思えば自国民に刃を突き付けるやり方は、天安門事件のときに若者を戦車で轢き殺した中国と何ら変わらない。
日本でも、検察の裏金作りを告発しようとした元大阪高検公安部長の三井環さんに対して、検察権力はテレビ番組の収録直前に不当逮捕した。権力とは、自らに火の粉が降りかかれば、なりふり構わぬ暴挙に出るものだ。
アメリカが「世界の警察」を自負するならば、せめて自国の人権問題くらいは、世界のお手本になって解決してもらいたい。

2013年6月号・編集手帖
根底にある拭い難い差別意識

▼4月23日、安倍首相は「村山談話」に関して「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と発言した。また、靖国神社への閣僚参拝問題については、「わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない」と、中国や韓国に対して鋭い敵視の言葉を浴びせた。

一方、5月13日、橋下大阪市長は「頭の上を銃弾が飛び交うなかで走っているとき、兵士を休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰だってわかっている」と発言した。さらに、沖縄で米兵の性犯罪が多発していることに関して、「もっと風俗業を活用してほしい」と、海兵隊の司令官に提言したという。
▼首相発言に対して、アメリカ側は「歴史を直視していない」 (ワシントンポスト紙)、「侵略の歴史を否定する強固な国粋主義者」(米議会局報告書)と、強い懸念を表明した。橋下氏の一連の発言に対し、米国務省の報道官が「異常で不快だ」と強く非難した。
中国・韓国からの猛反発には動じなかった首相も、アメリカからクレームがついた途端、「安倍内閣として侵略の事実を否定したことは一度もない。村山談話を引き継ぐ」(菅官房長官)と、気持ち悪いくらい低姿勢になった。一方の橋下氏は、「慰安婦制度は日本だけではない」 「なぜ日本だけが」と言い続け、アメリカに反発している。
▼首相は、決してアメリカにたしなめられて悔悛したのではない。官房長官の発言をつぶさに聞けば、「侵略の歴史を認める」ではなく「侵略の事実を否定したことはない」と、巧みにかわしているのが分かる。橋下氏の一連のツイッター発信は、「アメリカだってハワイを侵略した」「黒人を奴隷にしたじゃないか」と言っているネトウヨと、何ら変わらないレベルである。
首相も橋下氏も、根底にあるのは拭い難い差別意識である。中国や韓国を見下した差別、女性をものとしか見ていない差別、基地問題に苦しむ沖縄の人など頭の片隅にもない琉球差別である。そうした輩が、残念ながら今の日本の政治リーダーである。
▼普段から「国益」だの「愛国心」だのと言っている自称・愛国者たちは、愚かな発言によって日本の「国益」や日本人の「市民益」をいかに侵害しているのか、世界中で日本人がどれだけ奇異な目で見られているのかを、分かっているのだろうか。
一水会顧問の鈴木邦男さんは、朝日新聞「オピニオン」欄で素晴らしい発言をしている。「愛は欠点も失敗も認めたうえで愛しいと思う心。日本はアジア諸国に対して弁解しようもない失敗を犯した。失敗を認めることを反日的だと言いつのり、良いところばかり愛するのは愛国心ではない。心の痛みが伴わない愛国心はフィクションに過ぎない」と。胸を打つ言葉である。

2013年5月号・編集手帖
差別とは、いったい何だろうか

▼日本維新の会は3月30日に党大会を開き、平和憲法を激しく攻め立てた党綱領を発表した。帝国憲法下における天皇主権を否定し、戦前の人権弾圧や先の戦争への猛省から生まれた日本国憲法に対して、「絶対平和という非現実的な共同妄想を押し付けた元凶」であるとか、「日本を孤立と軽蔑の対象に貶めた」などと、民主主義者であればおよそ口にできない狂気の文言を羅列し罵倒している。驚くべき価値観であり、私から言わせれば「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、すべて憲法が悪い」と言っているが如き、理不尽な愚作である。

▼石原慎太郎は朝日新聞のインタビューに答えて、「日本は世界で孤立し、相手にされなくなっている。我欲がはびこり、権利を主張するばかりで義務がないがしろにされる日本人のメンタリティーとゆがんだ価値観をつくったのが憲法だ」として改憲を主張し、核を保有する強力な軍事国家になるべきだという妄想を口にしている。そのお粗末な見識は、おそらく憲法が権力者を縛るものであることを知らないが故に出てくる夢想なのであろう。あるいは、憲法が有する固有の歴史的な性格や人権がもつところの普遍性、憲法制定過程における様々な議論を何一つ勉強していないがゆえに発せられる不謹慎な寝言なのかもしれない。
目には目を、歯には歯を、核には核をという発想は、御本人が忌み嫌う北朝鮮の金正日や金正恩とまるで瓜二つである。そのような無教養が、「三国人」発言に代表される極端な差別意識を生んできたのであろう。
▼ところで、先日、福島から上京された方に驚くべき話を伺った。それは、「道路に止めていた福島ナンバーの車をボコボコにされた」 、「ガソリンスタンドで福島の車の給油を断られた」 、「修学旅行で福島の子どもたちが入った風呂のあとには別の学校の生徒が入れないと言われ、教師が困り果てた」という、恐ろしい差別の実例である。ありえないことだと思うのだが、残念ながら、それが今の日本の社会で実際に起きていることなのだ。
▼差別とは、いったい何だろうか。人は、人の下に人を作らなければ我慢できないのであろうか。憂鬱な気持ちでそんなことを考え込んでいたが、維新や自民党の憲法観に接して、何となく答えが見えてきたような気がする。相対的なものの見方ができない人、自分中心でしか捉えられない人、見せ掛けの「力」にしか頼れない人、平和を求め人を愛することができない人、個人の権利や人権など考えようともしない人、つまり彼の人のような貧困な思考回路が、差別という人として恥ずべき行為に至ってしまうのではないだろうか。

2013年4月号・編集手帖
ネトウヨを利用して

▼3月14日、「排外・人種侮蔑デモに抗議する国会集会」が開催された。在日朝鮮人に対する排外デモやヘイトスピーチを繰り返す在特会などに強い危機感を抱いた有田芳生、田城郁、徳永エリ各氏など国会議員の呼びかけで、それに共鳴する多数の市民が参議院会館の講堂に集った。

▼在日特権を許さない市民の会(在特会)は、これまで朝鮮学校の園児・児童らに対して度し難い罵声を浴びせ、新大久保や鶴橋のコリアタウンで憎悪に満ちた排外デモをエスカレートさせてきた。「チョン、三国人」「朝鮮人 首吊れ、毒飲め、叩き出せ、糞喰い民族!」と言ってシュプレッヒコールを挙げる彼らの集団威示行為は、およそ「表現の自由」と言える代物ではない。国連自由権規約「19条の3(表現の自由の制限)および20条(差別・敵意の扇動の禁止)」にも違反するし、ホロコーストの苦い経験をもつドイツでは、民衆扇動罪(刑法130条)を法定している。始末が悪いことに、彼らは醜悪なデモを自らネット上にアップして、社会に不満や閉塞感をもつ一定の人たちの共鳴を得ながら支持を広げている。まさに、日本社会の深刻な病理現象だと感じる。
▼ネトウヨは、ワーキングプアの同輩たちに対しても「貧乏人は死ね!自己責任だ!」と言って攻撃の刃を向けている。江戸時代の権力者が「士農工商」の下に「ヒニン・エタ」をつくったように、彼らも自分より下に朝鮮民族を位置づけることによって、自己の優位性を確認しようとしている。政治参加や社会の改革によって格差や貧困を克服しようとするのではなく、人を分別してお飾りの「愛国」を叫ぶことによって不満の捌け口を求めている。それは、フランスで多くの失業者や低賃金単純労働者が極右・FNを支持しているのとも、ドイツのネオナチに東ドイツ出身の貧しい若者が多いのとも、似て非なるものがある。
▼問題なのは、そういう卑劣で野蛮な彼らの行為を、大手メディアは批判をしないばかりか、その事実を取り上げようともしない。ゆえに、多くの市民はそれを知ることさえできない。さらに憂慮するのは、彼らの言動を警察権力は見て見ぬふりをしていることだ。それどころか、大阪では従軍慰安婦問題の集会を主催した市民に対して、大阪府警公安三課は在特会と結託して市民団体の事務所や代表者の自宅を家宅捜索している。暇を持て余す公安が、ネトウヨを利用して自分たちの仕事をつくるため市民を弾圧したのだ。ここまで進んだ権力腐敗に、驚きを禁じ得ない。

2013年3月号・編集手帖
救いがたい病理が蔓延っている

▼2010年度から高校授業料の無償化・就学支援金支給制度が始まったが、自民党・安倍政権は、拉致問題や核開発、ミサイル発射問題などを理由に、その対象から朝鮮学校を除外した。民主党政権下では、韓国・延坪島への砲撃事件を受けて、無償化の審査を中断した経過もある。民主党も自民党も、在日朝鮮人の子どもたちに嫌がらせをすれば、北朝鮮が核実験を止めて拉致被害者を日本へ帰すなどと、本気で思っているのだろうか。

▼北朝鮮による核実験の強行は言語道断である。アメリカも中国も核を持ってはいるが、被爆国の立場からすれば許しがたい暴挙である。同じく拉致も、日本の頑なな姿勢に問題があるとはいえ、一刻も早く解決せねばならない人道上の課題である。核も拉致も極めて遺憾なことではあるが、何の関係もない若者たちに八つ当たりをして何になるのだろう。政府は、「教育内容に朝鮮総連の影響が及んでいる」(下村文科大臣)などと因縁をつけ、「国民感情に配慮してそうした判断に至った」と言っているが、その人権感覚は国連からも強い批難を受けており、国籍による差別をしないように勧告されている。政府の態度はあり得ない陰湿ないじめだと思うのだが、不思議なことに、安倍政権に対する国民の批判の声はほとんど聞こえてこない。
▼話は変わるが、先日、コンビニでたばこを買おうとしていた大阪市の職員が、レジの年齢確認に腹を立てて液晶画面を壊した事件が起きた。店側も自らの責任逃れのため(未成年者に酒・たばこを売った場合、法律により50万円以下の罰金)、どこのコンビニでもマニュアルに従って白髪交じりの年配者まで確認ボタンを押すよう依頼する。以前、マクドナルドで「ハンバーガーとチーズバーガーをください」と言ったら、「ポテトとマックシェイクはいかがですか」と、注文してもいない商品まで勧められたことがあるが、まさにすべてがマニュアル化された世の中である。この国では、マニュアルは目安としてのガイドラインではなく、絶対的なメルクマールである。
▼レジを壊す暴力行為を肯定するつもりはないが、応用力のない社会はいかがなものか。一度決められたルールが形式的な流れに従って進められていくだけという社会は、実に気持ちが悪い。
上から言われたままに年齢確認をすればいいという単純なマニュアル思考と、北朝鮮が悪いことをするから朝鮮学校の生徒をいじめてもよしとする思慮を欠いた発想は、どこか共通するものがあると思えてならない。自分の頭で考えない社会は、実に残念で恥ずかしい。いま、この国を救いがたい病理が蔓延っているように思えてならない。

2013年2月号・編集手帖
人権制約の基本のキ(内在制約説)を、権力を行使する立場の人間は学ぶべき

▼1995年に起きた警察庁長官銃撃事件(「実行犯不詳」でオウム信者ら4人を殺人未遂容疑で逮捕したが、東京地検は嫌疑不十分で不起訴処分とした)で、公訴時効後に「オウム真理教による犯行だ」と警視庁が発表したことは名誉棄損にあたるとしてアレフが提訴していた裁判で、東京地裁は100万円の賠償と謝罪文の交付を都(警視庁)に命じる判決を下した。今回の判決を聞いて、警視庁のある幹部は椅子から転げ落ちそうになったくらいショックだったそうだ。おそらく、「俺たちのやることに有無は言わさない」というおごった意識なのであろう。警察当局の人権感覚の無さには驚かされる一方、デユー・プロセスを規定した憲法を遵守し、違法行為を許さなかった司法当局に対しては、久しぶりに拍手を送りたい。

▼犯罪が発生した場合、警察がそれを捜査し、容疑が固まれば被疑者を検挙して検察に送致し、検察が起訴をした後に裁判で有罪か無罪かが確定する。これが当たり前の刑事司法の手続きである。しかし警視庁は、この当然の手続きをすべて無視して、立件できなかった犯人を捏造し、記者会見をしたうえで自らのホームページで約1か月間掲載した。こんなことが許されれば、当局から睨まれたり煙ったがられた人は、皆犯人に仕立て上げられてしまう。
▼オウムの犯行だと発表した公安部長は、「教団のテロ再発防止のため公益性が勝る」と説明したが、彼らの言う「公益」から思い起こすのは、安倍自民党の憲法改正案である。憲法21条・表現の自由の2項に、「前項の規定にかかわらず、公益および公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは認められない」、12条では「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益および公の秩序に反してはならない」と、恐ろしい条文が書かれている。およそ憲法といえる代物ではない。右派・改憲派の憲法学者・小林節氏をして、「憲法は国民が政治権力を管理する法だという基本的なことを国会議員が知らない。だから憲法に愛国心や倫理・道徳の問題を持ち込もうとする。はっきり言って、無知・無教養だ」と言わしめている。
▼警視庁の幹部も自民党の議員も無知で無教養で不勉強なことは確かだが、それに輪をかけて彼らは権力をはき違えている。「公益」と「公共の福祉」は似て非なるものだという、人権制約の基本のキ(内在制約説)を、権力を行使する立場の人間は学ぶべきであろう。

2013年1月・編集手帖
超えてはいけない一線を越え、「この道はいつか来た道」になる危険性が大である

▼昨年末に行われた総選挙を振り返ると、この国の未来を見通すことができなくなる。一言で言うならば、「有権者の思考停止」ではないだろうか。第三極といわれる中小政党が乱立したことで、「各党が何を主張しているのかわからない」という声をよく聞いた。つまり、「政権交代」とか「郵政民営化は是か非か」といった単純な選択肢には反応できるが、「消費税(税制)」「原発」「TPP」「外交・安保」といった将来の日本の方向性を熟慮する課題については判断が及ばない、ということである。結果、投票率も当然下がった。

▼「今と未来への責任」と言った民主党に対して、自民党は「日本を取り戻す」と言った。たしかに、今と未来への責任を放棄し、マニフェスト違反を連発して財務官僚の軍門に下った民主党に失望した多くの人びとの気持ちはよく分かる。しかし、偏狭なナショナリズムを前面に出して、再び戦争への道に導こうと画策している自民党は、日本の「何を」取り戻すというのだろう。さらに自民党の上を行く極右政党の「維新の会」は、原発依存体質から脱却する意思さえまったくないうえ、TPPでアメリカに身売りしようとしているのである。こうした両党を選んだ国民は、真摯に子どもたちの未来をお考えなのだろうか。
▼ある地方紙の調査によれば、投票先を選ぶ際の最優先項目に「政策」をあげた人が、全体の49%を占めたという。ということは、下請けや零細企業など弱い立場の人にしわ寄せが来る消費増税を半数の人が容認したことになる。また、福島の大惨事からなんら教訓を得ていない人が半分いたことになる。どう考えても、多数の国民が「消費増税容認」「原発維持」「アメリカの言いなり」を選択したとは思えない。憲法9条を破棄して軍事大国になることを望んでいるとも、到底思えない。
▼国民は、平和の問題よりもその日のカネ(経済)の方を選んだと、単純に総括する人がいる。しかし、私はもっと深刻に受け止めている。おそらく、「政策で選んだ」と言いながら、実はそう思い込んでいるだけであり、政治に対するリテラシーがまったく涵養されていないのではないか。選ばれる側に「わかりやすい」課題設定をしてもらわなくては選択できない、完全な思考停止状態に陥ってしまったのだと思う。このたび選挙を境に、改憲・タカ派勢力が9割になってしまった。超えてはいけない一線を越え、「この道はいつか来た道」になる危険性が大である。有権者の人びとに心底から覚醒を呼びかけたい。

2012年12月号・編集手帖
スキャンダルの追及やくだらない揚げ足取りの質問に終始している「予算審議」を見直すべきである

▼東日本大震災の復興予算が、被災地と関係のないところで使われている問題が次々と判明している。どれもこれも驚きを禁じ得ない不正流用ばかりであるが、被災地域ではない自衛隊駐屯地の風呂や調理場まで復興予算で措置されていたのには驚いた。しかも、そのことを国会で追及された城島財務大臣は、「大震災で自衛隊は過酷な環境下で活動してきた。隊員の肉体的、精神的なケアを万全に行うためには、その回復基盤として生活関連施設の維持は不可欠だ」と、驚愕の答弁をしている。先日、枝野経産大臣が「ミソもクソも一緒にした議論はやめていただきたい」と参議院決算委員会で答弁したとき、委員長から「言葉を選ぶように」と注意され発言を撤回したが、まさに財務大臣の答弁は「ミソクソ一緒」の議論である。では、震災復興に尽力した自治体の職員、消防、警察、NTT、ガス会社、職人さんやボランティアさん、皆が国費で「風呂をつくれ」と言えば財務省は認めるのか!?大臣答弁はことの本質を誤魔化し、火事場泥棒を容認するに等しい。

▼また、法務省は全国23か所の刑務所や拘置所の改修にも復興予算を流用した。公安調査庁では「過激派対策費」の名目で14台の乗用車を購入した。13台は被災地以外に配置されているので、明らかに復興便乗の予算計上である。「被災地における治安確保のための調査基盤強化」というのだが、そもそもどこのセクトが被災地を拠点にテロ活動をしているのか?屁理屈もここまでくると、片腹痛しだ。
▼役人のモラルは、なぜここまで低下したのであろうか。民間企業で同じような欺罔行為を働けば、必ず手が後ろに回るであろう。しかし官僚が横領まがいのことを平気でやっても、罪に問われないばかりかメディアもほとんど不正を追及しない。「東北復興のためならば」と、庶民は額に汗して増税に耐えているのに、こんな卑劣なネコババを許してはならない。
▼どうすれば、この出鱈目な予算執行を防げるのであろうか。私たちはテレビで国会中継を見ていると、予算に関係ないことばかり予算委員会で質問する議員の姿をよく目にする。予算の分科会も、大雑把な議論か地元利益誘導のご当地ソングばかりである。ここは市町村議会を見習って、予算も決算も1ページずつ確認しながら審議すべきだ。スキャンダルの追及やくだらない揚げ足取りの質問に終始している「予算審議」を見直すべきである。官僚の暴走を阻止できて、はじめて国民から選ばれた国会議員の仕事が意味をなすのだと思う。

11月号・編集手帖
唯一の被爆国としての責務を放棄してしまった

▼ニューヨークで開催された国連総会第1委員会(軍縮)において、 「核兵器を非合法化する努力の強化」を促した声明案を、スイス、オーストリア、コスタリカ、フィリッピン、南アなど16か国が作成し、日本にも署名を打診したところ、日本政府は拒否した。日本はアメリカの核抑止力に依存しているので、それに賛同すれば政策的整合性がとれなくなるというのがその理由だという。ヒロシマ・ナガサキ、そして第5福竜丸事件を経験した国として、信じられない政治姿勢である。

▼核兵器の非人道性を訴えることと「核の傘」 の中に居ることが矛盾するというのであれば、そもそも「非核三原則」をどう理解すればいいのだろうか。政府は、その国是さえ否定しようとしているようである。
1968(昭和43)年1月、佐藤栄作首相は、所信表明演説において「非核三原則」を含めて「核廃絶・核軍縮」 「アメリカの核抑止力依存」「核エネルギーの平和利用」が日本の核政策の4本柱だと表明した。それが良いか悪いかは別にして、このたびの判断は佐藤内閣の政治方針からも明らかに逸脱しており、重大な政策変更である。また、「核の傘」を是認するものではないが、実際にアメリカの核の傘に入っている現実を考えたとき、その戦争抑止力は通常兵器も含めて成り立っていると捉えるのが自然である。アメリカが核を持っているから日本は非核政策を否定するというのは、仮に軍事力で同盟国を守る潜在的な抑止力を容認する考えをとる立場であっても、全体を把握していない見識である。
▼さらに、ステートメント賛同国のうち、デンマークとノルウェーはNATO北大西洋条約機構の一員としてアメリカの軍事の傘下にいるし、ニュージーランドは(アメリカの防衛義務は停止しているものの)ANZUS太平洋安全保障条約のメンバーである。 「日米安保があるから」という理由は、通用しない。日本は、もはや唯一の被爆国としての責務を放棄してしまった。
▼このような大事な政策決定を、外務省の役人だけでできるとは思えない。声明の案文は、「核使用がもたらす人道上の帰結への深い憂慮」や「ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下がもたらした恐るべき帰結」 を述べている。こうした至極当然の憂慮の表明を、野田政権は否定してしまったのである。そこまでアメリカに尻尾を振るイヌになり下がって、この国の政治家は恥ずかしくないのだろうか。 「イザとなったらアメリカが守ってくれる」 と信じ込んでいるオメデタイ輩ばかりでは、この国の未来に光を見いだすことはできない。

10月号・編集手帖
故郷を追われ、生活を奪われた多くの人びとの涙を見ても

▼政府は、2030年代に原発ゼロをめざす「革新的エネルギー環境戦略」をまとめた。しかし、同時に使用済み核燃料サイクルに関する事業は継続するという。また、枝野経産大臣は「建設中の大間原発は工事の継続を認める」と表明した。およそ「脱原発依存」とは言い難い政治姿勢である。さらに驚いたのは、メディアの論調である。読売新聞は9月15日付社説で、アメリカや財界や地方の知事などが反発していることを指摘して、政府の姿勢は「極めて無責任だ」と批判した。さらに「省エネに金がかかる」 「失業者が増える」 「原子力の技術者がいなくなる」とか、訳の分からない理屈を並べたてて、政府に「自覚」を促した。メディアがもつべき批判精神が、およそ真逆の方向の批判に向かっている。

▼アメリカは、日本の「原発ゼロ」で、技術力が低下し原発市場を中国に奪われることを不安視していると言われている。しかし、それだけではないだろう。「日本だけは特別に使用済み核燃料を再処理する権利を与えてあげているのに、その御厚意を無視するのか」という、ジャイアンのような上から目線ではないか。その裏には、「いざというときには軍事転用し、アジアの核安保に日本を利用しよう」という思惑がある。クリントンはウラジオストックで原発ゼロへ「関心」を示し、ポネマン副長官は「懸念」を表明した。原発覇権で儲けて、地域紛争になればさらに儲けようとするアメリカのホンネであろう。そんな国のご機嫌伺いのため、長島補佐官をのび太くん役のパシリとしてワシントンへ向かわせた。
▼財界の言い分はどうかといえば、「電力価格の高騰で供給不安になる」「日米同盟上の障害になり、成長戦略に逆行する」など、米倉経団連会長は「承服しかねる」 とのたもうた。西川福井県知事、三村青森県知事、古川六ヶ所村長、起善東通村長など、原発立地自治体の首長さんの発言も、首をかしげざるを得ない。 「地方の財政と住民の健康のどちらが大切なのか」 、と訊きたい。財界も首長たちも、電力会社もその労組も、要は「原子力ムラに、もう一儲けさせろ」ということなのか。
▼日本は、ヒロシマ・ナガサキでアメリカの人体実験の犠牲になり、フクシマでは原子力ムラの欺罔を妄信して取り返しのつかない体験をした。故郷を追われ、生活を奪われた多くの人びとの涙をあれほど見ても、まだカネの方が大事なのか。欲ボケした財界の御老人に怒りを込めて申し上げたい。
「そんな儲けたいのならば、廃炉ビジネスや再生エネルギーの補助金で儲ければいい」 。

NO.524 12年9月号
踏まれた人の痛みがわかる国民で

▼朝から晩までナショナリズムむき出しの放送が続き、「この国は本当に大丈夫だろうか」と、一人で何度も呟いた。伝えなければならない内外のニュースが山ほどあるのに、NHKまでもが金メダルのニュースばかりであった。頑張った選手をたたえるのは微笑ましいが、「報道の役割って、そんなものじゃないでしょ」と思ったのは、私だけだったのだろうか。

▼そのオリンピックがようやく終えたと思ったら、今度は近隣諸国との険悪ニュースが、日々の紙面に横たわっている。尖閣諸島に上陸した香港、台湾の活動家14人が逮捕され強制送還され、また李明博大統領の発言が発端で領土問題が国際司法裁判所へ提訴される外交問題に発展している。いずれもナショナリズムが根底にあるのだが、経済水域の問題が主である尖閣と歴史認識が問われる竹島は自ずと違うので、私たちはそれぞれ個別に捉えて考えるべきだと思う。
▼李明博大統領は、8月10日に竹島(独島)に上陸した後、14日に「日本の王が韓国を訪問したければ、独立運動の犠牲となった方たちに心から謝罪してほしい」と韓国教育大学で講演し、翌15日の光復節記念行事では「従軍慰安婦問題は女性の人権問題として…日本の責任ある措置を求める」と演説した。
▼まず竹島問題。確かに竹島はサンフランシスコ講和条約で日本が放棄するべき領土とは明記されてはいなかったが、1905年に竹島を島根に編入した年、韓国の外交権を奪って日韓併合へと進んでいった歴史を考えたとき、はたして日本の正当性がどこまで主張できるのであろうか。
天皇への謝罪要求は外交儀礼上いかがなものかと思うし、今の天皇に何ら責任がないことは明らかであるが、昭和天皇が戦争犯罪者であり日本の天皇制が侵略を容認してきた事実を確認したい気持ちはよくわかる。
従軍慰安婦の問題については、李大統領に言われるまでもなく、オモニたちの心の傷を微塵も感じない日本政府は、非人間的であり異常である。
▼あと半年で任期が切れる李明博大統領が、支持率回復のために大人げない発言をした愚かさはあるが、その中には真摯に国民全体が受け入れなければならない歴史的事実が含まれている。東京新聞の五味編集委員は、「玄葉外相は『ナショナリズムを煽る言動をとるのは韓国のためにならない』と強調したが、この言葉は日本にも当てはまりそうだ」と書いていた。まさにその通りである。
踏まれた足の痛みは覚えていても、踏んだ方は覚えていない。踏まれた人の痛みがわかる国民でなければならない。

NO.523 12年8月号
「官僚主導からの脱却」を唱えていた政党が

▼私たちの国で、今まで「原子力の平和利用」と言われてきたのは、1955年に制定された原子力基本法の第2条で、開発と利用を平和目的に限ることと、「民主、自主、公開」の原則が掲げられていることが、その根拠である。中曽根康弘と正力・読売新聞が結託して将来の軍事利用を画策しているのは見え見えであっても、あるいは「平和利用ではなく単なる商業利用だろう」と内心思っていたとしても、この明文規定がある限り、建前としては戦争のために原発は使えないことが担保されていた。ところが、民主党政権はまたもやトンデモナイことを仕出かした。

▼原子力規制委員会設置法の附則第2条2項に、「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全ならびに〝我が国の安全保障に資する〟ことを目的として行うものとする」という文言が、自民党の要求で追加された。そして、それを民主党も「平和の党」公明党も容認したのである。しかも、ほとんどの人が知らないところで、メディアもろくに報じないなかで、こっそりとはめ込んできた。その意図は、もちろん原発の軍事転用への道をさらに一歩進めたいという目論見であろう。
▼この卑怯なやり方を見たとき、私はすぐに9条改憲を思い浮かべた。それは、9条の第1項で「戦争放棄を謳っているから、2項を変えてもいいではないか」という論法である。戦争をやりたくて仕方がない一部の財界人やイデオロギー偏重の一部の政治家は、「陸、海、空軍はこれを保持しない」という文言が邪魔でならない。「自衛のため」とか「侵略戦争以外の戦争」とか、いろんな理屈をつけて、とにかく一歩踏み出したい思惑である。
▼ところで、国家戦略会議のフロンティア分科会が、これまでの憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使を認めることを求める報告書を野田総理に提出した。マニフェストで「国家戦略室」を掲げた時から嫌な予感はしていたが、ついに民主党政権の恐るべきタカ派的体質が露呈された。最近では東京の街中を迷彩服姿の自衛隊員が、訓練と称して大手を振って歩き、区役所に寝泊りまでしている。自民党でさえ憚ってきたことが、民主党に代わってから「何でもあり」になってきた。
「官僚主導からの脱却」を唱えていた政党が、これほどまでに財務省(消費税増税)や防衛省(憲法改悪)や文科省(原発依存)の意向を忖度するようになったことを、彼らは「恥ずかしい」と思わないのであろうか。小泉・竹中構造改革でズタズタになった日本社会を、まともな方向に戻してほしいと願った国民の思いは、ついに届かなかったようである。

NO.522 12年7月号
メディアの役割

▼中国大使館一等書記官のスパイ疑惑が大々的に報じられた。外国人登録証を不正に更新して銀行口座を開設した、中国への投資話に日本企業から資金を集めた、日本の食物を中国で販売する展示館の運営に中国企業を関与させるため政府三役と接触した、等々である。でも多くの方々は、「ウィーン条約が禁じる外交官の商業活動には抵触するだろうが、どこがスパイ活動にあたるのか」と、報道に疑問をもたれたのではないか。

▼公安当局から一方的にリークされた「スパイ疑惑」情報を、何も検証することなく垂れ流しているメディアの姿勢を、私は恐ろしく感じる。普通の記者ならば、それが高度な諜報活動なのか、単なる個人的な金儲けなのか、容易に判断できるはずだ。また、なぜいま当局がこの手の情報を意識的に流すのか、一歩立ち止まって思考を巡らせるのが、記者というものではないだろうか。
▼先日、宇宙航空研究開発機構設置法及び内閣府設置法の一部が改正され、平和目的に限られていた人工衛星の打ち上げを、安全保障(軍事)目的でも可能にする法案が衆議院を通過した。また、検疫のための施設の強制使用や臨時医療施設開設のための土地強制使用、あるいは多くの者が利用する施設の使用制限など著しい人権制約が盛り込まれたインフルエンザ対策特別措置法も国会を通過した。そのほか、①暴力団対策法を改定して新たに「団体規制」を設けようとする動きもある。将来的には、労組や市民団体も取り締まり対象にしようとする意図が見え見えだ。②行政が保有する重要情報を漏らした公務員を厳罰にする秘密保全法制定の動きは、80年代に自民党政府が目論んだスパイ防止法の焼き直しである。③消費税が10%になる段階で導入を目指すマイナンバー法案は、まさに国民総背番号制そのものである。
▼上記の二法案はほとんど報道されていない。本来なら「政府はこういう恐ろしいことを考えているのですよ」と市民に知らしめるのがメディアの役割であろう。しかし、今それを期待できないのは残念だ。昨今、街中に張り巡らされている違法な監視カメラの設置と相まって、徹底的に国民を監視・管理しようとする権力の意図は明白だ。従順な民をつくり、アメリカのように戦争のできる国にする発想を、正しいとは思えない。
▼政権交代が起きても日本のテクノクラート支配はまったく変わらなかった。そんな八方ふさがりのなか、権力監視を徹底的に貫いたマスコミ出身の弁護士・日隅一雄さんが享年49で他界された。何度も本誌に登場していただき、読者諸兄の信頼も厚い。日本が岐路に立つこの時期に、貴重な人材を失ってしまった社会的な損失はあまりにも大きい。言葉にならないが、心からご冥福をお祈りする。

NO.521 12年6月号
弱い立場の人を見つけてバッシングする今の風潮

▼群馬県の関越自動車道で7人が死亡した高速ツアーバスの事故で、恐ろしいほどの差別意識が世に充満している。居眠り運転をした運転手が帰化した元中国人で、入院先の病院で難解な言葉を理解できないと、事故直後にNHKが報じた。それ以来、巷には「言葉が分からない中国人が運転してもいいのか」といった、ほとんど人種差別に近い言説が流布された。ネット上に至っては、「コンビニ、ファミレス、シナ人だらけ。元シナ人が人の命を預かるバスの運転手」など、驚くほど意識水準の低い書き込みで溢れた。

▼そもそも、日本語が分からない人が帰化できるはずがない。伝える側のNHKはじめ各局の報道姿勢には呆れるが、自分で考える力をもたない日本人のリテラシーの無さにはもっと落胆する。本来は、極端な規制緩和による過当競争の結果、超過酷な労働条件を強いられたことが事故の原因であったと、まず報道されねばならない。そして、この事故を招いた労働環境の実態と構造的問題=小泉構造改革・竹中路線を考える論評がなければならないはずだ。差別や偏見を伴った報道と、それを鵜呑みにする大衆に、背筋が寒くなる恐ろしさを感じる。
▼差別・偏見といえば、もう一つ触れておきたいことがある。大阪市の橋下市長は、3万8000人の職員に対して入れ墨の有無を尋ねる調査をした。そのうちの50人が「している」と回答したという。橋下市長は、「入れ墨をしたいなら民間に行け」 、「ファッションだから許せという見解には与しない」と言い、分限免職もありえるとの考えを示している。タトゥーを入れることも髪を染めることも、あるいは化粧をすることも、公務員の職務を遂行するうえで必要ではないだろうが、ならばすべて否定していいのか。何人にも表現の自由はある。感情的で不当な処分であり、憲法違反である。
橋下さん、あなたこそ「行列のできる法律相談」で「茶髪の風雲児」を売りに政界デビューを果たしたではないか。自己批判はないのであろうか。ふざけるのもいい加減にしろ、と言いたい。
▼一部の高級官僚の天下りや渡りを、メディアや世論が批判するのは理にかなっている。しかし、公務員を十把一絡げにして糾弾し、溜飲を下げたような気持ちになる国民は、浅はかでしかない。
帰化人に対する差別もそうだが、弱い立場の人を見つけて徹底的にバッシングする今のメディアの風潮や橋下氏の手法は許せない。これらを是認することは天に唾する如きもので、やがてこのツケは私たちに戻ってくる。

NO.520 12年5月号
日本の悪しき伝統を除去する作業を

▼2005年10月に成立した障害者自立支援法は、「保護から自立へ」という美名のもとに、従来の支援費制度に代わって障害者に費用の1割負担を求めた。これに対して障害をもつ人たちは、「応益負担の実施は、障害が重い障害者ほど、サービスを受ければ受けるほど負担を強いられる。これは憲法25条が保障する生存権の侵害にあたる」として、違憲訴訟を起こした。裁判の過程において、原告・弁護団と被告である厚生労働省は「2013年8月までに障害者自立支援法を廃止し、新たな福祉法制を実施する」ことで基本合意し、和解が成立した。

▼これを受けて、内閣府に設けられた総合福祉部会は、①自立支援法を廃止して障害者総合福祉法を制定、②障害者を「保護の対象」から「権利の主体」へと転換、③現行6段階の障害程度区分を見直し、本人の意向を尊重して利用サービスを決める、④食費や光熱水費を除き、障害に伴うサービスは原則無償、などを提言した。しかしながら、厚生労働省はこれらの提言を無視し、またこれまでの原告との約束をすべて反故にして、先般、看板の架け替えにしか過ぎない新法を提案してきた。
▼私は、衆議院に提出された法律を見て驚いた。「地域社会における共生の実現に向けて新たな障害保健施策を講ずるための関係法律の整備に関する法律案に対する修正案」という、異常に長いタイトルの訳の分からない法案である。これは、自立支援法を「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律」に変え、児童福祉法と知的障害者福祉法など関係法規を改正する内容なのだが、ならば「自立支援法等の改正案」と言えば一言で済む話ではないか。
こういう誤魔化しの手法を見て、私は原発事故における政府や東電の説明を思い出した。事故やトラブルを「事象」に、老朽化を「高経年化」に、原子炉建屋に溜まった汚染水を「滞留水」に、そして冷温停止に「状態」を付けた出鱈目説明であった。
太平洋戦争で「撤退を転進」、「全滅を玉砕」と表現した大本営発表以来、言うべきことを隠す日本の精神文化は何一つ変わっていない。残念というしかない。
▼誤魔化しの体質は、厚労省を責めれば済む話ではない。民主党政権に対して皆が失望するのは、決してマニフェスト違反だけではない。自民党・保守政治では拭うことができないこのような日本の悪しき伝統を除去する作業を、民主党は完全に怠っているのである。そのことが民主党のレゾンデートルを失わせていると、早く気付いてほしいのである。

NO.519 12年4月号
この国は本当に取り返しがつかないことに

▼東日本大震災から1年目にあたる3月11日、サンデーモーニング(TBS系列)を見ていた私は、とても耐えられない気分になった。警戒区域である浪江町の被災した建物から、出演者は皆防護服(みたいなもの)を着込んで中継していた。現地から報道する姿勢はわかるが、わざとボロボロの被災施設の中にカメラを入れ、被曝を防げそうもない服装で撮影するのは、いかがなものであろうか。数ある報道番組・政治系番組のなかで、今までサンデーモーニングは比較的良質だと思っていた。視聴率至上主義で面白おかしく作ったくだらない民放番組が蔓延する中で、かの番組はキャストもテーマも比較的まともである。それゆえ、防災気分を煽って震災をエンターテインメント化した構成をしたことは、残念でならない。

▼この日は、朝から晩まで各局「大震災特番」ばかりであった。なかには胸が痛むものや涙を誘う番組もあったが、別な角度から「いのち」や「絆」について深掘りした番組がほしかった。震災だけが命を奪うのではない。自殺や孤独死、死刑制度についても、メディアは命の尊さを議論する素材として、提供してもらいたかった。
▼もう一つ、看過できない「事件」について触れておきたい。橋下大阪市長の友人で、府立和泉高校の中原徹校長が、卒業式の国歌斉唱の際に教職員の口元をチェックし、歌っていないことを認めた一人の教員を処分するという。橋下氏は、会見で「口元を見るのは当たり前で、(職務命令を)やっていない高校の現場がおかしい」と述べ、さらに「厳格すぎる」と異を唱えた生野教育委員長に対して、「命令を出して、トップがやりすぎだと梯子を外すのは許されないマネジメントだ」と言い放った。狂気の沙汰としか思えない橋下氏の言動に、メディアの反応は全く鈍い。一昔前なら一斉に叩いて即刻辞任であっただろうが、テレビのコメントを見ていても橋下氏に遠慮しながらの物言いである。ネットの書き込みに至っては、「教員が規則を守るのは当たり前だ」といった、馬鹿としか言いようがないものだらけである。
▼ドイツには「5%条項」がある。ワイマール憲法下におけるライヒ議会での小党分立がナチスの台頭を招いた反省からできた制度である。先人の知恵であるが、ひるがえってわが国を考えてみれば、憲法を無視し人権を弾圧している「大阪維新」なる極右政党が、すでに府議会では過半数を得ている。はっきり言うが、大阪府民は愚かだと思う。しかし、石原知事を選んでいる東京都民も、私を含めて愚かなのだ。メディアが本気で警鐘を鳴らさねば、この国は本当に取り返しがつかないことになる。

NO.518 12年3月号
市民社会は成熟してきたのだと思いたい

▼政権交代を果たして2年半、かつて情報公開に熱心に取り組んだ民主党は、こんなにも変質してしまった。非公開の外交文書も「国民レベルで議論できるように思い切って公開していく」(岡田元外相 2010、2、27)と言っていた政党が、今国会に秘密保全法案を提出してくるという。ただただ驚くばかりである。

国の安全、外交、公共の安全及び秩序の維持について、行政機関が「特別秘密」と指定すれば、情報公開の対象から外すことができる同法案は、中曽根内閣の時代に目論まれた国家機密法(スパイ防止法)よりも悪質だ。以前は外交・防衛上の秘密が対象だったが、今回は警察の情報も含まれる。民主党政権になればリベラルでハト派的になると思っていた私は、完全に騙されたようである。
▼もう一つ、消費増税の議論の陰に隠れて重大な法案が閣議決定された。一人ひとりの国民に番号を付ける個人識別番号法案である。政府は「マイナンバー」などと柔らかい呼び方で誤魔化しているが、要は国民総背番号制である。「社会保障と税の一体改革」の議論に絡ませ、「年金、医療、介護、雇用保険などの社会保障に関する情報を一元的に管理するため」と説明するが、人には知られたくない個人の病歴や治療歴などのプライバシーまでも国に一括管理されることになる。おそらく、将来的には賞罰や逮捕歴までインプットされるのであろう。
▼秘密保全法は、2010年9月に起きた尖閣諸島での中国漁船衝突事件の動画流出問題を口実に、秘密保持のための法整備が必要だと理由づけた。ならば、国家公務員法の守秘義務違反の量刑を重くすれば済むではないか。また国民共通番号制は、消費増税による逆進性対策として導入するという。しかし、そんなのにお金を使うよりも、物品税を復活させたり、軽減税率を定めた西欧型の付加価値税に消費税を衣替えすればいい話である。
▼各地で行われている脱原発デモを徹底的に弾圧している権力の実態を見るときに、「秘密保全法案」はどう考えても警察官僚の企みとしか思えない。その露払いとして、共通番号制で国民に瀬踏みをしているのであろう。警察は「国民は何も知らない方が統治しやすい」と考えているし、検察は純白で綺麗な世の中こそ美しいと勘違いしている。福島原発の事故を経て、ようやく市民は政府の嘘にも気付いた。市民社会は成熟してきたのだと思いたい。
これ以上、危険な国策法案を安易に受け入れる国民であってほしくない。

NO.517 12年2月号
ファシズムに進むもリベラリズムを目指すも・・・

▼ファシズムは、正しい主張から始まることが多い。橋下氏は大阪市の幹部職員の給与を定額制にする、職員の外郭団体への天下りは原則禁止する、関西電力の株主権を行使して脱原発を求めるという。いずれも真っ当な主張である。その一方で、彼は「暴力的にやらないと改革はできない」と言って労働組合の事務所を市役所内から撤去するよう求め、市役所と労組との関係を適正化する「労組追い出し条例」案を2月定例会に提案するという。平松氏を支持した労組への報復としか思えない。

▼たしかに、独裁のほうが「改革」はしやすい。既得権益を剥奪しようとするとき、抵抗する者を押える力がなければ改革は成就しない。しかし、そのときの「力」が暴力であったり、地位や立場を利用した姑息で強権的な権力行使でいいのだろうか。さらに、市役所「改革」に向けて職員の内部告発を促すために、非行行為に関わった職員でも自主申告した場合は懲戒免職とはせず処分軽減の対象とすることを、市の内規に明文化するのだという。相互監視・密告制度や懺悔を用いて、自分に反対するものはすべて殲滅しようとする手法だ。橋下氏の発想は北朝鮮当局と同じで、そんな職場を想像しただけでも空恐ろしくなる。
▼「この時代に独裁なんてあるわけねえだろう!橋下さん頑張れ!」というネットの書き込みを見た。おそらく、この人は「労働者は一人では弱いものだから、資本や権力の言いなりにならないように団結権が保障されている」ことも知らないのだろう。浅薄なご意見の持ち主に一言言いたい。ドイツでは、自由権に絶対的な価値を認めていた時代に社会権保障を高らかに掲げたワイマール憲法が制定されたが、そのもとにおいてナチスの台頭を許した。何ら熟慮することなく橋下氏に投票し、「既得権益を打ち破った」と溜飲を下げた気になっている輩ばかりでは、先が思いやられる。格差社会の犠牲者がこぞって小泉純一郎を支持した愚行をまたもや繰り返したのに、まったく気付いてもいない。
▼ワイマール憲法は大統領に強大な権限を与え、直接民主制を随所に採用した極めて進歩的な憲法であった。しかし、それがかえって仇となりファシズムを生んだ。
21世紀のこの国においても、民衆が熱狂して時計の針を逆に戻すのであろうか。今年は辰年である。竜の髭を蟻が狙うという諺のように、人びとは強者に立ち向かってほしい。ファシズムに進むもリベラリズムを目指すも、市民の見識次第である。

NO.516 12年1月号
ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマを決して風化させないために

▼原発輸出に向けた原子力協定案が国会で可決・成立した。すでにベトナムでは日本企業の受注が決まっており、リトアニア、ヨルダン、トルコとの間でも交渉が進んでいるという。福島原発事故の後始末もまったく見通せないなか、フクシマの苦しみを海外にばら撒こうというのは、どう考えても倫理的にあってはならないことであろう。 「カネ、カネ、カネ!」の自公政権ならいざ知らず、いまは民主党政権である。こんな恥知らずの醜態を見るために政権交代を後押ししたのかと思うと、呆然と立ちすくんでしまう。

▼核の輸出を目論む死の商人たちは、一基あたり3000億~4000億円、送電やインフラ整備などを含めると数兆円にも上るといわれるビッグビジネスに、ハイエナのように群がっている。政府は政府で「わが国が今もっている技術について海外の評価にこたえるのは、むしろ国際的な責任だ」(枝野経産大臣)といって、死のビジネスを後押ししている。国内では難しくなった新規建設を、海外で残すことによって軍事転用の技術を確保しておきたいという、えげつないダブルスタンダードである。さらにメディアまで、「政府の成長戦略の大きな柱」(読売社説)などと財界の片棒を担ぎ、この反道徳的行為を批判する論調をもたない。まさに「原子力むら」の再結成だ。金儲けをするなら、廃炉ビジネスや廃棄物処理でやれと言いたい。
▼そもそもベトナムなどは、共産党一党独裁政権下で国民に正しい情報が伝えられていない。また政府の方針に反対する言論も許されない。福島での出来事さえ知らない人びとを騙すことに、政治家たち(財界人やマスコミ人も)は心が痛まないのだろうか。国会での採決では、衆議院では民主党から2人が反対・10人以上が棄権、参議院では12人が棄権して退席した。党執行部はこれら議員に厳重注意をしたらしいが、国民が厳重注意したいのは民主党や野田内閣である。
▼若い頃、はじめて広島の地を訪れたとき、「過ちは決して繰り返しません。安らかにお眠りください」という言葉に接し、私は「反核・平和」を胸に刻んだ。
いま、東京都と大阪市では、原発の是非を問う住民投票条例の直接請求が行われている。「なぜ東京と大阪なのか」についての疑問は残るが、憲法で認められた直接民主主義の一つであるイニシアティブの権利を大切に行使していきたい。ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマを決して風化させないために。

NO.515 2011年12月号
ジャーナリスト魂を!

▼「有本恵子さんが生きていないことは外務省も分かっている」と発言した田原総一朗さんに対して、有本さんの両親が慰謝料を求めて提訴した裁判で、神戸地裁は「発言は政治的言論として高度の保護価値を有するが、田原氏の取材からは外務省の事実認識において合理的に推測できず、発言内容を真実とする相当な理由がない。両親の感情を侵害したことは重大」として、田原さんに100万円の支払いを命じた。田原さんは当初控訴する意向を示していたが、「裁判を長引かせると有本さんを苦しめることになる」として、控訴しない方針に転じた。

▼長井浩一裁判長に聞きたい。「高度の保護価値」があるという憲法観をもつならば、なぜ田原さんの言論を擁護しないのか。拉致家族の感情で言論が断罪されるならば、何の報道もできなくなる。百歩譲って、田原さんの情報に瑕疵があったとしても、言論の自由市場での議論は何人にも保障されねばならない。あえて言うなら、「嘘を言ってはいけない」という法律などはない。
田原さんの発言は、他人を欺いて財産上の利益を得た詐欺でもないし、故意に他人の権利を侵害した不法行為にも当たらない。司法は精密な根拠を示してほしい。
▼有本さんは「ありもしないことを言ってはいけない。きちんと裏づけをとれた発言をしてほしい」とコメントしているが、では「恵子さんが生きている」という確証はあるのだろうか。「北朝鮮の情報は信用できない」 、「外務省の情報も信憑性がない」と、自分に都合のいい情報しか得たくないというのならば、それは単なる身勝手であり、拉致問題解決のために何も役立たない。被害者の帰国を真剣に望むのならば、今はひれ伏してでも帰るまでは北朝鮮当局にすがろうとするのが親心だ。政府を糾弾して制裁の強化を求め、マイナスの情報は拒否する姿勢を見るとき、本気で交渉を望んでいるとは、私には思えない。
▼「司法の独立」を捨て、拉致議連や家族会、極右暴力集団「在特会」の顔色を伺う司法当局の日和見主義には暗澹たる思いがする。
一方、田原さんには様々なプレッシャーがあると思うが、「この国の未来のために、ジャーナリスト魂を見せてください」と、お願いしたい気持ちで一杯だ。ステファン・タレンタイアが『ヴォルテールの友人』の中で述べた「私は君の言うことには賛成しないが、君がそれを言う権利は死んでも守るつもりだ」という言葉を、皆が想起してほしい。

NO.514 11年11月号
日本の民主主義の進路

▼脱原発デモの参加者に因縁をつけ、わざと挑発して「やらせ公妨」を連発する警察ファシズム。凛の会事件や陸山会事件など、勝手なストーリーで事件を捏造する検察ファシズム。邪推と憶測のみで有罪判決を導く司法ファシズム。人権や民主主義は歴史を重ねるごとに深化してきたものなのに、日・米・露では日々後退している。戦後輸入された民主主義は、根付くことなくファシズムへの道へ回帰するのであろうか。

▼ファシズムといえば、大阪の「ハシズム」は危険極まりない。教員の懲戒規定の明確化や教育委員に対する首長の罷免権など、尋常とは思えない政治介入である。
法政大の竹田茂夫教授は「競争と効率性の市場原理を徹底し、業績評価下位15%の者は自動的に解雇されるエンロンの職場統治を想起する」という。生存競争の場へと化す学校現場は、権力者へのおもねりや足の引っ張り合いで荒廃するとの指摘だ。橋下は、教育基本条例案と職員基本条例の是非を府知事・市長選挙の争点にするというのだが、それは「教育の管理・統制、公務員バッシングを大衆が望んでいる」と考えるポピュリズムの発想である。
▼ポピュリズムといえば、民主党が提起した衆議院の比例定数80減を軸とした「選挙制度改革」が、非常に気になる。党税調の藤井会長は「増税と同じ次元で議員定数の削減が必要」と述べた。経営不振で会社をリストラする際には「まず社長や役員から範を示せ」という見識であろうが、それは「議員が多すぎる」という根拠のない世論を過度に忖度した危険なポピュリズムでもある。議員一人当たりの経費は年間1億円、消費税1%の税収は2兆円、仮に議員を100人減らしても消費税0,005%分にしかならない。日本の人口1億2000万に対して衆議院定数は480名、人口6545万のフランスの国民議会は577名、人口6156万のイギリスの庶民院は650名、人口8175万のドイツの連邦議会は598名(+超過議席)である。問題なのは議員定数ではなく、月129万円の議員歳費、100万円の文書通信交通滞在費、議員一人当たり65万円の立法事務費、および年総額319億円の政党助成金にある。(しかも企業・団体献金との二重取り)
▼民主主義はポピュリズムのリスクが伴う傍ら、ファシズム(全体主義的統合)の危険も伴う。「民主主義とはひどい政治制度である。しかし今まで存在したいかなる政治制度よりもましな制度である」というチャーチルの格言があるが、大阪の人びとの判断次第で日本の民主主義の進路が決まる気がする。

NO.513 11年10月号
権力に支えられた「原子力むら」は

▼就任わずか9日目で、「死の街」発言と「放射能をうつしてやる」発言の責任をとり、鉢呂経済産業大臣が辞任した。メディアは、被災地住民へのインタビューを繰り返し、反感を掻き立てる報道を繰り返した。10数年前、私はたった一度だけ数人で鉢呂さんと夕食をともにしたことがある。同僚議員が軽口をたたいたら顔をしかめたほど、冗談一つ言わない堅物という印象であった。鉢呂さんとはほとんど人間関係のない私だが、今回の一件は釈然としない思いで一杯だ。

▼批判を招いた発言は、「残念ながら、周辺の市町村の市街地は、人っ子一人いないまさに死の街という形だ」と言った後に、「…原発作業員は前向きで明るく活力を持って取り組んでいる」 「福島の再生なくして日本の再生はない」 「政府も全面的にバックアップする」というものだ。死の街と化した実態に驚愕し、ゴーストタウンを再生する強い決意を示した発言が辞任に値するであろうか。第5福竜丸事件の時、メディアは「死の灰を浴びた」と伝えた。鉢呂発言が被災者の心を逆なですると言うのなら、彼ら乗組員に対してもメディアは謝罪しなければならない。
▼防災服を擦り付けるしぐさをした「つけちゃうぞ」発言は、記者たちと議員宿舎で立ち話をした中で出たとされる。新聞各社によって表現が違い、その信憑性に疑義があるとはいえ、事実だとすれば「少しふざけすぎだ」という印象は否めない。「オフレコ破り」などと言われているが、もし親しい記者との一瞬の会話が「事件」にされたとしたら、何か企てられた臭いを感じてしまう。脱原発・自然エネルギーシフトへ舵を切る仕事を具体的に手がけていた鉢呂さんに対し、役人とつるんだ一部メディアが狙い打ちし、他のメディアが護送船団で追随したのではないか、疑心暗鬼にならざるを得ない。
▼先月、北海道長万部町のご当地キャラクター「まんべくん」が、ツイッターで「日本がアジア諸国民に与えた被害数2000万人」 「どう見ても日本の侵略戦争がすべての始まり」とつぶやいたら、サイトがパンクするほどの抗議が殺到して〝謹慎〟を余儀なくされた。「死の街」発言同様、本当のことをしゃべると弾圧される、非常に怖い世の中である。
その一方で、大震災を「天罰だ」と言った石原慎太郎は、メディアの庇護のもと平然と生き延びている。脱原発デモに対する警察の異常な警備体制でも分かるように、権力に支えられた「原子力むら」は確実に巻き返しを計っている。

NO.512 11年9月号
原発を「建てず、動かさず、輸出せず」を、国是に!!

▼経団連の米倉会長が「原発の新設もありうる」 「国破れてソーラーあり」と言って脱原発を批判したのを、欲の皮が突っ張った老人の単なる寝言だと聞き流していたが、実は日本の経営者の多くが同様の考えであることを知った。共同通信社が主要企業105社を対象にしたアンケート調査で、今後原発を「段階的に縮小・廃止」 (28社)、「安全性を確保して維持」 (26社)、「さらに増設」 (3社)、「速やかに廃止」 (0社)という結果を報道で知った。「縮小・廃止」派よりも「維持・増設」派の企業が多いとは、イコール人の命よりも金儲けを優先するということだ。

高度成長期には「カネ、カネ、カネのイエローモンキー」と諸外国から罵倒されていたが、エコノミックアニマル根性は、今も抜けていないのであろうか!?
▼福島の事故から1カ月が経った4月13日、経産省と文科省はこっそりと電源立地交付金の支給規則を改定していた。しかも、会見もせずにドサクサにまぎれて官報に掲載したのだ。既存の立地自治体は発電量が重視される一方、原発を新増設した時の交付額を大幅に増やす、いわば「増原発」への政策誘導である。実に姑息で周到な役人の悪知恵である。
一方、北電マネーにまみれた高橋北海道知事(経産省出身)は、泊3号機の運転再開にゴーサインを出した。「このままでは来年3月に全原発が止まる。原発なしでも供給に支障がないのがバレてしまう(汗)」という経産官僚の心の叫びを忖度し、官民総がかりの事実隠蔽工作である。
▼内閣官房参与・前田匡史氏は8月16日付東京新聞のインタビューに対し、「原子力の平和利用技術で先頭を走っていた日本は、事故でおたおたすべきでない」 「最新鋭の原発技術は、さらに安全性を高めて輸出できる」と応えている。原発からの撤退を無責任だと言い切る政府当局者は、フクシマの悲哀、苦悩、葛藤、後悔の念を理解できないのであろうか。他者の痛みを思いやれない「原子力むら」の輩は、到底血の通った人間とは思えない。
▼最近、理解できないニュースが多すぎる。責任をとらされたはずの官僚が割増退職金をもらう「泥棒に追い銭」。節電を奨励している東電が東北電力に200万キロワットも融通している摩訶不思議。「もんじゅ」などの原発関係費4200億円もが予算計上されてる公共事業。環境庁の外局に「原子力安全庁」をつくるというが、そもそも「安全庁」ではなく「原子力規制・監視庁」であろう。今やるべき総括原価方式の見直しも発送電の分離も、まったく手が付けられていない。
国会は「脱原発三原則」を決議すべきである。原発を「建てず、動かさず、輸出せず」を、国是に!!

NO.511 11年8月号
世論と権力に迎合する司法?

▼2007年5月、「たかじんのそこまで言って委員会」(日本テレビ系)の本番中、橋下徹大阪府知事(当時は弁護士)は視聴者に向かって「山口県光市母子殺害事件の弁護団をもし許せないって思うんだったら、一斉に弁護士会に懲戒請求をかけてもらいたい」と呼びかけた。その結果、広島弁護士会には約2500件の懲戒請求が出された。それに対して、同事件の弁護士4人は橋下知事に損害賠償を求めて提訴し、1審判決は名誉毀損を認め800万円の賠償の支払いを命じ、2審判決は賠償額こそ360万円に減額されたものの不法行為を認めた。しかし最高裁は、先般7月15日、「刑事弁護の本質を十分に説明しないまま行った発言は軽率で不適切だったが、表現行為の一環で、視聴者の判断に基づく行動を促したにすぎない」「弁護士の苦痛が我慢すべき限度を超えているとはいえず違法ではない」として、逆転無罪を言い渡した。

▼世の中の多数は、凄惨な殺人事件でありかつ稚拙な主張をした被告側に対する厳罰感情が強く、橋下知事が勝訴したことを歓迎しているように思える。しかし私は、日本人の思考力の欠如に驚いている。メディアも含めてそうであるが、強姦でも殺人でも、あらゆる犯罪の弁護を行うのが弁護士の職責であるはずだ。「悪い奴を庇うのはとんでもない」といった論調が平気で横行している現在の世相を、非常に憂える。テレビという公共の電波を通じて大衆を扇動し、国民の処罰感情をいたずらに煽る愚行に対して、名誉毀損も業務妨害も賠償の必要も認めないという判示に対して、異議を唱える見識がほとんどみられない。橋下知事の言動が新橋のガード下で吠えたものなら「言論の自由」で済む話であろうが、これはイデオロギー的な信念に基づいた確信犯であり、極めて悪質な教唆にほかならない。
▼最高裁は自らの任務を完全に放棄している。軽率な発言だと認めているのに、「懲戒請求を呼びかけるに〝とどめた〟 のだから違法ではない」という理屈は、奇妙なこじつけとしか思えない。法律知識の浅い橋下弁護士が低俗番組でアジテーションし、暴言を真に受けた視聴者から2500件もの文書が弁護士のもとに届いた事実を、どうして「受忍限度を超える程度だとはいえない」と断じられるのか。世論と権力に迎合する司法など何の価値もない。社会にとって害悪ですらある。
▼感情的な言論がネット上にはびこるなか、実に的を得た意見を見つけた。「『橋下に逆転勝訴をもたらした最高裁の面々は次回の国民審査で落とそうぜ!』と、有名人がテレビを利用して煽ってもいいということですよね?」この書き込みに対し、最高裁の判事さん、どう応えますか?

NO.510 11年7月号
春の叙勲を受けた人たちに

▼先日ある集会に参加した際、興味深い内容のビラを受け取った。そこには、「①大企業は内部留保を震災の義援金として復興のために供出すべきである。法人税の税率引き下げなどとんでもない、②生命保険会社は震災で死亡・行方不明になった25000人のなかで受取人がいない分の金額を義援金として供出すべきである、③金融機関も受取人のいない預貯金を義援金として供出すべきである、④リニア新幹線の建設は東北が復興できるまで凍結して復興財源にまわすべきである」、などと書かれていた。

▼たしかに、財産権に関する法律上の問題は多々あるとは思うが、生保も金融機関も社会的責任を有する法人であるのだから、こうした意見に耳を傾けるべきであろう。生命保険協会は、震災で両親が死亡・行方不明となった震災孤児への保険金支払いを迅速に進めるため「未成年者生活支援ネットワーク」を設立したが、一方で、被災した契約者が12月まで保険料を払わなくても契約を有効とする猶予期間の延長は困難だとしている。保険屋さんが慈善事業でないことくらいは分かっているが、震災の悲惨な爪痕を見るときに、「あまりにも欲の皮が突っ張りすぎているのではないだろうか」と言いたい。
▼政府は、この時期に「税と社会保障の一体改革」を進めようとするかたわら、復興構想会議は「基幹税」という表現で増税を提言した。さらに防衛相は、「2+2」だの理屈をつけて辺野古移転を沖縄県知事に伝えた。景気が冷え込んでいるなかでの大災害というダブルパンチの状態で、消費税を上げれば国民生活がどうなるのか、誰にでも想像はつくであろう。本当に復興財源が足りないというのなら、多額の内部留保を持つ大企業の法人税率を引き上げ、富裕税としての物品税を復活させ、相続税を強化して復興財源を捻出すべきだ。同時に、米軍への思いやり予算など真っ先に「仕分け」すべきである。ドサクサに紛れて辺野古に基地を押し付けるなど言語道断である。
▼先般、春の叙勲者が発表された。大綬章の6名はすべて国会議員を含む公務員出身者である。栄典とは、社会に貢献された民間人に対して、国が敬意を表して授与するのが本来の姿ではないだろうか。国家権力の側にいた者が、年をとって国から褒美をもらうなどというのは、お手盛りのマッチポンプ以外のなにものでもない。
海部元首相を筆頭に、今回叙勲を受けた人たちに申し上げたい。一人でもいいから誰か声を上げてほしい。「こんな時期なのだから、皆で辞退しようじゃないか。今年はその分の経費を震災の復興にまわそうよ」と。

NO.509 11年6月号
ビンラディン殺害のニュースに歓喜したアメリカ国民の思考回路こそ・・・

▼私は、テロも戦争も反対である。ウサマ・ビンラディン容疑者が9・11事件の真犯人だとしたら、到底許されはしない。ゆえに、このたびのアメリカの殺害行為も絶対に許されてはならないと思う。原発事故の報道も大事だが、メディアはなぜアメリカの野蛮な行為を糾弾しないのであろうか。シュミット元独首相やピレイ国連人権高等弁務官が指摘するように、米当局の国際法違反は明らかである。

▼ビンラディン容疑者殺害計画は、情報漏洩を恐れて事前にパキスタン当局に知らせることはなかったようだ。一部に密約説はあるものの、パキスタンのギラニ首相も「我々の同意を得ていない」と怒るように、明らかな主権侵害である。もし私がアメリカで犯罪の容疑をかけられ指名手配されたとして、アメリカの警察が日本に乗り込んで私を暗殺することが許されるであろうか。そこには、法に則った適正な手続きと公正な司法手続きがなければならないのは当然のことである。
▼殺害行為自体も問題である。ホワイトハウスの当初の発表はたびたび覆され、米軍部隊が容疑者宅に侵入した際彼は武装しておらず、丸腰で抵抗した末に殺害されたことが明らかになった。しかも、夫人と子どもも虐殺されている。米当局は「手を挙げて投降すれば生け捕りにした」と釈明しているようだが、寝込みをいきなり強盗に襲われて瞬時に抵抗しない人がいるであろうか。
▼報復の連鎖の原因を除去する努力は何もせずに、拘束中のテロ容疑者を「水責め」の拷問にしてビンラディン一家の潜伏先を割り出し、「力こそ正義」というテロまがいの暗殺をして、いったい何が生まれるのであろうか。またもやアルカイダ系組織による自爆テロが起こり、イエメンなどのテロ組織からの報復予告は相次いでいる。今でさえ、アメリカの空港は全身透視装置による「ポルノ検査」が行われる「無人権」状態である。今後は、報復防御のためあらゆる人権制約を可能にする管理社会へと突入するであろう。
▼オバマ大統領は、CBSのインタビューで「大量殺人の加害者が今回の仕打ちに値しないと言うなら、頭の検査を受けた方がいい」と述べた。しかし、「9・11」事件の自作自演疑惑はヨーロッパでは極一般に流通しているのだ。容疑者を水葬にすれば「死人に口無し」であろうと考える私は、日・米では少数派であろうが、ビンラディン殺害のニュースにワールドカップ優勝の如き歓喜したアメリカ国民の思考回路こそ、精密検査を受けた方がいいのではないだろうか。

NO.508 11年5月号
将来生まれてくる子どもたちに

▼地震と津波は天災だが、原発事故は人災である。東電も保安院も、「想定外」という言葉をよく使っていたが、それは人の意見に耳を傾けなかっただけである。30年以上も前から、多くの学者・研究者や市民運動家は原発の危険性を指摘してきたのだ。事故から1カ月が過ぎ、各地で脱原発のデモや集会は盛んにおこなわれているが、メディアはそれを無視し続けている。政府―電力業界―大手メディアが一体となってつくりあげた国策を、いま転換させねばならない。

▼震災後、とても気になることが二つある。一つは「計画停電」である。駅のエスカレーターは止まり高速道路の街灯は消え、ネオン街も薄暗い夜が続いている。2003年の夏には定期検査の虚偽記載が発覚したスキャンダルで、福島第1・第2、柏崎・刈羽の東電管内の全17基の原発はすべてストップしたが、停電はなかった。それなのに今回は、夏の時期まで視野に入れての「計画停電」である。多くの火力発電が止まっているとはいえ、その復旧にはさほどの時間を要しない。夏まで見越しての「計画停電」プロパガンダには合点がいかない。「原発止めてもいいんですか?不便な生活が待っていますよ!」という陰湿なメッセージではないか。電気と電波の超無駄遣いである深夜の低俗番組こそ止めるべきだ。
▼もう一つは公共広告機構ACのコマーシャル。「心は見えないけど心遣いは見える。思いは見えないけど思いやりは誰にでも見える」まではよかった。だが、そのあとは道徳の押し売りやナショナリズムを鼓舞する宣伝である。「日本は強い国。日本の力を信じている」「みんなでやれば乗り越えられる」「日本の強さは団結力。日本が一つのチームなんです」、これらは悪乗りを通り越している。「ちょっと違うだろう!」と不快になるのは、私だけなのだろうか。
▼大震災を奇禍として不穏な動きが多々みられる。「地震は天罰」と発言した知事も当選してしまった。今こそ生き方を見直す時期である。私は「原発が危険だからいらない」と言ったことはない。地震にも絶対耐えられる構造で津波がこない高台に作れば、原発はいいのだろうか。気の遠くなるような放射性廃棄物の半減期、その処理がまったく確立されていないなかで、将来生まれてくる子どもたちに、悪魔の玉手箱をプレゼントしてはならない。

NO.507 11年4月号
司法が信頼できない社会

▼東北・関東地方に起きた大震災により、読者の皆様をはじめ多数の方々が被災され命を奪われたことを思うと、やりきれない気持ちである。地震が発生した夜、関西方面の友人から安否を気遣う電話やメールの着信が多数入ったが、直接会話できた人はその中の一部でしかなかった。夜中になって、ソウルから2件の国際電話が入った。韓国でも、日本で一大事が起こったという報道の繰り返しらしい。国籍や民族が違っても、人を思う気持ちは同じ。感謝感激とともに、あらためてこの世に戦争があることの矛盾を感じた。

▼震災の話題にかき消されがちであるが、忘れてはならない大切なテーマもある。村木厚子さんの無罪判決を受けて発足した法相の私的諮問機関「検察の在り方検討会議」において、幹部を含む検事約1400人へ意識調査(回答率90%)をしたところ、取調べにおいて「被疑者の実際の供述とは異なる調書の作成を指示されたことがある」=26%、「取調べの任意性に問題があると感じた=28%、「無罪判決が出ると職歴のマイナスだと感じる」=31%、という回答結果が報告された。匿名の回答であっても、職務への忠誠心から遠慮がちの回答を寄せた人も相当数いるであろうから、実際にはもっと多くの検察官が、「問題がある」取調べをしたことがあると認識しているのではないか。外からのチェックが働かない組織は独善に走る。恐ろしいことである。
▼一方、笠間検事総長は、日本記者クラブでの会見において、特捜の捜査と起訴の権限分離に言及した。特捜部の主任検事を補佐する立場に特捜部以外(公判部など)の検事を置き、起訴の可否を判断させるという。また特捜事件の可視化については、一部可視化でも不適切な取調べを根絶できると言い、全面可視化を拒否した。閉じた組織の身内同士で担当を分けても、どれほどのチェックが効くのか。検察が見立てた筋書きに合わなければ証拠改ざんまでやってしまった大阪特捜の病理をどこまで解剖し切ったのか。いまだに「私を信用しろ」といわんばかりの姿勢で果たして国民を説得できるか。
▼司法が信頼できない社会は、法が空洞化するのみならず、正義を担保することはできない。検察は、現状の深刻さに対する反省がなさすぎる。この際、「法と正義」について皆で真剣に考えるときであろう。

NO.506 11年3月号
思考停止のメディア?

▼エジプトの民主化デモなど報じるべき大ニュースが世界に溢れているとき、日本のメディアは八百長メールの話題が一面トップで、「相撲は真剣勝負か伝統文化か」という軽薄な大論争に一億総乱舞である。そもそもこの件は、昨年7月に野球賭博事件で相撲部屋を家宅捜索した際、力士から押収した携帯電話からメールの存在が明らかになったが、八百長は刑法上の犯罪ではないという理由で、警視庁は文科省経由で相撲協会に情報提供したとされる。

▼そこで、(1)八百長相撲が犯罪に該当しないという警視庁の見方は正しいのか、(2)そうだとすれば、職務上知りえた情報を他者に漏洩することは法律上許されるのか、を考えねばならない。公権力の行使は謙抑的であるべきだが、(1)金銭の授受が絡む取り組みが行われたならば、勝った力士は所得税の申告をする義務があるはずなので、所得税法違反容疑で捜査できるはずである。また、もし懸賞金がかかっていた取り組みがあれば、相撲協会および協賛企業を欺いて財産上不法な利益を得たことになるので、詐欺罪が成立するのではないか。協会が言う「無気力相撲」というレベルではない。(2)税法違反と詐欺罪をクリアーできたとしても、警視庁が文科省に力士名やメールの詳細を伝える半日前の2月1日深夜に毎日新聞にリークしたことは公務員の守秘義務違反に当たらないのか。毎日側はスクープだといっているが、2日の朝刊を見るかぎり独自取材したと見受けられる記事内容ではない。これは、麻薬事件の捜査でヤクは見つからなかったが部下との不倫の携帯画像が見つかったのを会社に通報したのと同じで、明らかに捜査権の濫用であり通信の秘密の侵害である。
▼一方、刑事訴訟法47条は「訴訟に関する書類は、公判の開廷前にはこれを公にしてはならない。但し、公益上の必要その他の事由があって相当と認められる場合はこのかぎりではない」と規定するので、公益目的の財団法人が運営する大相撲の不祥事なので外部への公開は問題ないという意見もある。が、但書以下は国政調査権に基づく国会の要求や裁判所が記録の取り寄せを決定した場合などを指すのであり、相撲が国技だという理由はおよそ該当しない。
▼おそらく、野球賭博の解明に行き詰った警視庁が失態から目を逸らさせるため毎日新聞を利用して、世間の目を八百長に向けさせたと考えるのが自然ではないか。権力の不当な世論操作を甘受し、違法行為に加担し、事の本質を追求せずに新橋のガード下の与太話レベルの報道しかできないこの国のメディアは、思考停止の極地である。

NO.505 11年2月号
メディアはこの国の進路を誤らせないための権力監視を

▼人間は、なぜこんなにも愚かな生き物なのであろうか。2001年、山手線新大久保駅でホームに落ちた酔っ払いを助けようとして、韓国人留学生の李秀賢さんとカメラマンの関根史郎さんが犠牲になった。この事故をきっかけに、国土交通省はホームドアの設置を本格検討したが、あれから10年、先日も視覚障害者が転落死する悲しい事故が起きた。交通事故が起きてから道に信号を付ける後手後手の発想から、人はなぜ抜け出せないのであろうか。

▼人の命が失われてから、ようやく命の大切さに気が付くことは愚かだが、積極的に人の命を奪いにいくことは、馬鹿を通り越してサイテーである。菅政権は、軍事産業からの強い要望で武器輸出三原則の見直しに動いた。社民党との国会対策上の取引でそれは叶わなかったが、尖閣諸島を強く意識して「動的防衛力への転換」を防衛大綱改定の柱に据えた。自民党でさえ守っていた専守防衛の旗を降ろし、死の商人と好戦的官僚の言いなりになった姿勢は、どう考えても理解できない。
▼民主党は「生活が第一」「コンクリートから人へ」と言った。貧困と格差で疲弊した新自由主義の小泉構造改革路線と決別し、人権や平和、環境重視の、人間を大切にする新しい政治の到来を誰もが期待した。ところがどうであろう。普天間基地の県外・国外移設は反故にされ、取り調べの可視化や警察・検察の裏金問題の調査も一向に進まない、官房機密費も公開しない、死刑も執行した、高校無償化から朝鮮学校だけを除外する差別、基礎年金の全額税方式も白紙にして消費税増税路線を進もうとしている。マニフェストは絵に描いた餅だったのか。
▼先日、ジャーナリストの神保哲生さんにお会いした際、「本来のメディアの仕事は改革を後押しすることではなく、権力の暴走をチェックすること」と言われた。メディアが民主党の公約違反を追及するのはいいが、もっと根底的な権力批判をしてほしい。菅家さんの足利事件、村木さんの郵便不正事件など、この間えん罪事件は大きく報じられたが、被害者に寄り添う情緒的報道だけでなく、えん罪の温床である警察・検察権力の体質、人質司法の実態、特捜の解体などの根っこの議論を提起すべきである。石川知裕議員が検察からの再聴取で、捜査段階の自供を維持するように強要された事件など、事の本質を論ずる題材は用意されている。そして、平和国家をかなぐり捨てて再び過ちを繰り返そうとしている愚かな国家権力の暴走に対して、メディアはこの国の進路を誤らせないための権力監視を強くのぞみたい。

NO.504 11年1月号
信念を曲げた言動を謝罪してほしい

▼11月18日の参議院予算委員会において、仙谷官房長官は「自衛隊は暴力装置でもある。特段の中立性が保たれなければいけない」と発言したが、自民党の抗議を受けて直後に発言を撤回した。そして、「実力装置と言い換える。自衛隊の皆様に謝罪する」と言い換えて陳謝した。菅内閣の支持率が急降下しているのはなぜであろうか。この発言の撤回に見られる腰の定まらない有り様が、そのすべてを物語っているように思える。
▼この件について、自民党のみならずマスコミも一斉に仙谷官房長官を批判した。しかし、自衛隊が暴力装置であることは至極当たり前の事実であろう。軍隊が非暴力の装置であるはずはなく、誰がどう見ても暴力装置以外の何者でもない。仮に自衛隊が非暴力であるならば、それはすでに自衛隊とはいえないし、民間のガードマンとなんら変わりがない部隊になってしまうであろう。
▼また自衛隊はおろか、警察もある意味では暴力装置である。警察が公的に暴力を振るうことができるのは、生まれながらにしてもっている人権=自然権の一部を一時的に放棄し、国家の力(pouvoir)に社会の安寧秩序を維持する権限を、私たちが委譲しているからである。我々がそういった社会契約をしているからこそ、警察は暴力装置であることが許されるのである。それを皆が勘違いしているから、違法で不当な職務質問が横行したり、ストーリーありきの捜査で冤罪事件が起きたりすることが間々あるのである。
▼私は、仙谷さんとは長年旧知の間柄であるが、なぜこの発言を撤回したのかまったく理解できない。筋違いのマスコミの攻撃を恐れたのか、自民党の理不尽な言い分に屈したのか、これほど筋を曲げるとは驚嘆である。自衛隊は暴力装置であるからこそシビリアンコントロールが必要なのであり、警察も暴力装置であるからこそ国民の支持と信頼が必要なのである。こんな馬鹿げた論調に迎合してばかりいるから、民主党は人々から見放されてしまうのであろう。正しいと思って言ったことは、最後まで曲げない信念を民主党はもってもらいたい。そして、自衛隊の諸君に謝る暇があるのなら、信念を曲げた言動をしたことを、国民に謝罪してほしいものである。

NO.503 2010年12月号
「国民の知る権利」にあたるのか

▼尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件の映像を、海上保安庁の職員が故意に流出させた事件について、政治、法律、メディア、世論という、4つの側面から考えたい。
まず政治的側面。このビデオを一部の国会議員にしか公開しなかったのは、日中関係の悪化を懸念して、世論が「反中」になることを政府が極度に警戒したからに他ならない。そもそもこの事件は、船長の釈放を検察の判断であるとして、政府が説明責任を明確にしなかったことに、誤りの発端がある。しかしビデオを公開しないと政治が判断した以上は、公務員がこれに従うのは当然である。保安職員の独断あるいは共謀でビデオの流出を図った行為は、明らかに現代版「2,26」、つまり政治的「クーデター」である。
▼次に法律的な側面では、これが「国民の知る権利」にあたるのか、また国家公務員法上の「職務上知りえた秘密」に該当するかどうかが問題となる。法曹界の一部にも、外交機密に比して秘密性が低いという被疑者を庇う見解もあるようだ。しかし、海保職員の多数が知っているならばらしても守秘義務違反ではないのか。西山事件の場合は政府が大嘘をついていた事実を国民に知らせる必要があった正当な行為だったのに有罪とされたのである。今回の事件は政府が真実を隠していたわけではないのに、これを公務員の「内部告発」だと許してしまえば、法治国家は体をなさない。
▼また、なぜメディアは今回の事件を匿名・モザイクで報道するのであろう。日常、魔が差したような些細な窃盗事件でも、民間人は被疑者の段階から実名で報道されている。裁判員裁判が始まった以降も、メディアの犯人視報道は改まっていない。ましてや、この事件の被疑者は国家公務員である。なぜ例外的に匿名なのか。そういえば、佐賀知的障害者事件の容疑者の警官も匿名であった。マスコミは、権力側にいる人だけ基準を変えるのか。
▼最後に世論である。新聞やインターネットを見ると、被疑者の公務員に対し「間違ったことはしていない」「賞賛の意思を伝えたい」「知る権利を守ってくれる勇気ある人」という意見が、少なからず見受けられる。「フライデー」や「フォーカス」レベルの物見胡散の好奇心が、「国民の知る権利への奉仕」であろうはずがない。尖閣諸島や竹島問題で大騒ぎすることは、なんら「愛国心」ではない。中国の感情的な対応には不快感を覚えるが、それに冷静な対応もできない日本人は、彼らと同程度の判断能力しかないことを、自ら証明しているようなものである。

NO.502 10年11月号
泥棒に留守番を頼むようなもの

▼大阪地検特捜部による捜査資料改ざん・隠蔽事件で、前田恒彦主任検事(証拠隠滅)と大坪弘道前特捜部長、佐賀元明前特捜部副部長(犯人隠避)が逮捕された。また別な検事も、脅迫的な取調べがあった疑いが濃厚になるなど、検察への不信は頂点に達している。しかし私は、これらの事件を通じて、検察に対する憤りはもとより、それを報じているメディアの方に少なからぬ疑問を感じる。
▼メディアは、この事件を「前代未聞」とか「信じがたい」などといっているが、はたしてそうであろうか。鈴木宗男さんや佐藤優さんの事件、福島の佐藤栄佐久元知事の収賄容疑、さらには民主党の小沢一郎元幹事長の陸山会事件などを見れば、検察がストーリーを勝手に作って事件を誇張もしくは捏造することなど、今までいくらでもあったことである。検察からのリーク情報のみに頼り、事件に潜む背景を何一つ報じてこなかったメディアの報道姿勢は、重く責任を問われなければならない。一面的で見当違いの報道は、もう卒業しなければならない。さらに本件でいえば、大坪、佐賀両氏は無実を主張し、検察当局と全面的に争うという。検察はトカゲの尻尾を切るために、生贄を差し出しまたもやでっち上げた可能性も否定できない。まだ裁判にもなっていないので無罪推定原則を持ち出すことさえ早いのだが、いまだ有罪前提視報道が幅を利かせていることに怖さを覚える。
▼落し物の財布を横領した疑いで、大阪府東警察署の警部補から任意で事情聴取をされた男性が、警察官からの暴行・暴言を受けたとして特別公務員暴行陵虐罪で刑事告訴した。録音されたテープによれば、「お前、警察なめたらあかんぞ」「知らんですまんぞ、殴るぞ」「手ださへんと思ったら大間違いやぞ、こら」と、下手な刑事ドラマさながらの暴言と脅迫が繰り返されている。チカン冤罪で苦しんでいる多くの人は、こういった高圧的な取調べで観念してしまい、泣く泣く罪を認めてしまっている。林眞須美さんの夫・健二さんも、保険金詐欺事件の取調べの中で、「警察は国民を守るためにあるんやない。国民を監視するためにあるんや。生かすも殺すもこっちの胸先三寸」と、警察官から脅されている。
▼警察・検察の共通するものは、自分たちが頂点であるという錯覚と誤った正義感である。また、そこから導き出される「事件を造ってでも解決していこう」とする誤った職業意識である。村木厚子さんの無罪判決を機に、一連の事件を検証するため最高検の中に検証チームをつくったという。しかし、次長検事をトップとする内部のチームでいくら検証作業を行ってみても、泥棒に留守番を頼むようなもので、検証の成果があがるとは到底思えない。この際、特捜と公安はきっぱりと廃止してもらいたい。FD改ざんを見るに見かねた良心が検察内部にある今なら、まだ間に合うと思う。

NO.501 10年10月号
本当の政治主導とは

▼またもや官僚主導の大弊害が起こった。9月2日の「朝日新聞」によれば、死刑制度をめぐる国民的な議論をするために千葉景子法務大臣が提唱した「刑場の公開」から、フリーランスの記者やネットメディア、外国人記者などが排除された。法務省記者クラブに所属する報道機関21社だけへの「公開」である。法務省は、報道機関を絞った正当な根拠をまったく明らかにしていないのだが、取材時間や人数を制約した理由として、未決勾留者たちのプライバシーを守るために、記者と収容者の接触を遮断する必要があったとしている。普段は取調べの可視化に大抵抗して、被疑者の人権など微塵も考えない彼らが、この期に及んでプライバシー権をもち出すなど、片腹痛しである。
▼さらに驚くことは、拘置所内のどこに刑場があるのかを察知されないように、会議室から刑場までの記者の移動に際して、黒い窓ガラスとカーテンで覆ったバスで送迎したという。刑場の場所を特定されることに、何の不都合があるのだろうか。役人の隠蔽体質そのものだと思うし、まったく合理性がない。自分たちがよくない事をしているという負い目があるので、処刑する場所を隠したいのであろうか。
▼また、東京拘置所内で回覧される新聞から、今回の「刑場公開」を報道した部分を、「心情の安定を害する」という理由で黒塗りにしたという。和歌山カレー事件で有罪にされた林眞須美さん(彼女は冤罪であると確信している)に、私が「マスコミ市民」を贈呈しても、「心情の安定を害する」という理由なのか、手元に届けられていない。癌の患者に余命を告げて心の準備を促す時代に、「心情の安定」を理由に記事を隠匿するなど聞いて呆れる。おそらく、自分たちの手で一方的に命を抹殺しようとする人に対して、自らの心情が安定しないので、情報を遮断するという方策に行き着くのであろう。
▼こうした役所の体質を正すことこそが、本当の政治主導である。せっかく民主党が政権をとっても、死刑も廃止されない、取調べの可視化も進まないでは、政権交代の意味がない。頑なの局地ともいえる法務省を「洗濯」してほしい。最後に、今回は立派な報道をした「朝日新聞」に、敬意を表したい。

NO.500 10年9月号
いま民主党政権がやるべきこと

▼1967年に創刊した本誌が、500号を迎えるに至った。43年前、上田哲氏が代表理事として立ち上げたことから本誌の歴史は始まったが、なんといっても安孫子前編集長の長年の労苦がなければ、今日まで続くことはできなかったであろう。編集の責任者として、あらためて故安孫子氏に感謝の意を表したい。
▼7月28日、千葉景子法相の下で二人の死刑囚の刑が執行された。千葉さんは処刑に立ち会うとともに、刑場の公開と法務省内に死刑に関する勉強会を立ち上げることを約束した。しかし、どんな言い訳をしようとも、アムネスティー議連や死刑廃止議連のメンバーであった彼女が、国家の殺人行為に手を貸したことは許されない。また、「法律に沿って適正な判断をされた」とコメントした菅さんの発言も驚愕である。政権交代とは、誤った法を正していくことに意義があるはずだ。おそらく法務省の役人は、「民主党政権なんて、こんなものよ」とほくそえんでいることであろう。裁判員裁判の中で、近々死刑に該当する事犯が出てくる前に、「民間人」法相に死刑を執行させる必要があった官僚の意図を、どうして見抜けないのであろうか。
▼見識ある評論家として知られる寺島実郎氏は、サンデーモーニング(TBS系)の中で、「無期判決でも、10年ぐらいで出てきてしまうところに問題がある」旨の発言をされた。この誤った認識が、「死刑は必要」という世論喚起に役立っている。たしかに、以前は15年程度で出てきた無期囚もいたが、それは70~80年代のことである。現在では、無期懲役の平均出所年数は30年程度であり、仮に50代で刑が確定したとすれば、大多数の人は獄死している。無責任な論評は、世の中に誤解を与える。
▼死刑を廃止している国は139カ国、存置国は日本、アメリカ、中国など58カ国である。EUへの加盟条件は、死刑廃止国であることだ。国連規約人権委員会は、日本政府に死刑廃止を勧告(最終見解)している。政府も国民も、この事実にあまりにも疎すぎる。
▼政治主導だ、官僚支配体制の打破だといってみても、財務省や外務省、そして法務省の官僚にいとも簡単に操られている姿を見るにつけ、「政権交代って、何だったのか?」と考えてしまう。いま民主党政権がやるべきことは、死刑の執行を即時停止し、定住外国人に地方参政権を付与し、警察、検察での取り調べ可視化法案をすぐに制定することである。アメリカのような野蛮な国ではなく、ヨーロッパ水準の国を目指してほしい。

NO.499 10年8月号
民主主義の進化のため

▼参議院選挙が終わった。結果についての受け止め方はそれぞれあると思うが、「消費税」が争点化されたことは、あまりにも的外れだったように思える。健全な政治家、そして批判精神を備えたメディアをもたないこの国は、とても不幸だと感じた。
▼哨戒艦沈没事件直後の6月2日、韓国では統一地方選挙が行われた。李明博大統領の対北朝鮮対応を60%の人々が支持する中で、与党ハンナラ党の圧勝が予測されていた。しかし蓋を開けてみたら、ソウル市や京畿道では与党が辛勝したものの、仁川市など7つの道・主要都市では野党民主党が勝利をおさめた。その理由は、首都機能移転問題も影響したが、大統領の強硬な姿勢に軍事衝突を懸念した若者層が、ネットメディアなどを駆使して世論の流れを変えたといわれている。
▼そもそも鳩山前総理が辞任をした最大の理由は、「普天間問題」での迷走であった。自ら設定した決着期限の5月末直前に、「学ぶにつけ、沖縄に存在する米軍全体のなかで海兵隊は抑止力が維持できるという思いに至った」と、自民党政権時代と同じことを言い出した。ならば鳩山さんに聞きたい。(1)韓国の哨戒艦沈没事件を例示して北朝鮮の「脅威」を理由に挙げたが、それなら海兵隊をなぜ日本海側ではなく沖縄に置くのですか、(2)尖閣諸島や竹島の問題が念頭にあるとしたら、米中・米韓関係の中で海兵隊が抑止力になるとでも本気で考えているのですか、(3)沖縄の海兵隊はいまアフガンで展開しているのに、北東アジアの安定とどう結びつくのですか。
▼岡田、北沢両大臣を操った外務省と防衛省にもこの質問に答えてもらいたい。また役人と結託して「抑止力論」を煽り、鳩山さんの足を引っ張ったマスコミにも、同じことを聞きたい。日米同盟とか抑止力などという活字はよく踊っていたが、中身のある解説を聞くことは少ない。マスコミは徹底的に鳩山さんを叩いたが、辞任をした瞬間に、沖縄問題を全国民に知らしめた「功績」を称えた。ここまでくると、メディアの劣化も甚だしい。
▼韓国と日本の最大の違いは、情報や情勢を判断する能力の差である。体制順応型のメディアが多い中で、軍事政権下で反骨精神を発揮した歴史をもつハンギョレ新聞や、オーマイニュースなど市民参加型のネットメディアの伸張で、韓国民のメディアリテラシーは格段に高まっている。興味本位の政局報道や競馬中継のような低俗な選挙特番ばかり繰り返している日本。政治を熟慮する韓国の気風を見習いたい。民主主義の進化のため、メディアの力とメディアリテラシーは欠かせない。

NO.498 10年7月号
「危険な国」にしたい理由は何か

▼福岡県警組織犯罪対策課は、「福岡県暴力団排除条例」を根拠に、県内のコンビニエンスストアーから任侠ものの漫画や雑誌の撤去を要請した。これに対して、コミックの原作者である宮崎学さんは、県を相手取って提訴した。県警は、子どもたちからこれらの書物を遠ざけることが、条例でいう「適切な措置」だと考えているようだ。任侠の道が正しいと考える人は極少数であろうし、やくざ映画を見たり本を読んだらからといって、単純にやくざになるはずがない。単細胞な警察の思考回路は、バカバカしさを通り越して空恐ろしい。そこまで子どもを管理し、人々にも危機意識を煽ることに、何のメリットがあるのだろうか。
▼一方、兵庫県警では、6月から深夜早朝にサングラスやマスクをしてコンビニに入店した客がいたら、即110番するように指導しているという。事件が起きなくても通報される、笑い話にしか思えないが、本当の話だ。風邪や花粉症だけではなく、世の中には眼がわるい人もいれば肌に疾患がある人もいる。タモリやEXILEは買い物にも行けない。警視庁は、国松警察庁長官狙撃事件を証拠もなくオウムの犯行と決め付けたが、一連の警察の暴走は限度を超えている。人は、裁判で有罪が確定するまではあくまでも無罪と推定されるのであり、だからこそ民主社会が成り立っている。ましてや、事件に着手さえない段階で犯人扱いされては、近い将来表現の自由は奪われ、若者の腰パンやダメージ加工のGパンさえ禁止になるだろう。
▼兵庫県警は、「行き過ぎとの声もあるが、非常事態の措置。遠慮なく通報してほしい」と臆面もなく言っている。しかし、年間27件の強盗事件の発生が「非常事態」だろうか。表現の自由を規制するには、「明白かつ現在の危険」があるか、「より制限的でない他の選びうる手段」(less restrictive alternatives)の基準に照らして、判断されなければならない。つまり、真っ暗な映画館で突然「火事だ!」とわめく人間の言論は規制できるが、電気がついているコンビニにグラサンをかけて入店しただけで、人権を制約できるはずがない。
▼日本における殺人事件の認知件数は、1954年の3081件をピークに1990年代までに半減し、近年は1100件~1200件程度のほぼ横ばいである。人口10万人あたりの殺人事件発生数は、アメリカ5・5件、フランス3・7件、ドイツ3・5件なのに対し、日本は1・2件である(2002年)。日本は先進国の中で飛びぬけて安全な国なのに、嘘をついてまで「危険な国」にしたい理由は何か。警察は、日本を中国や北朝鮮みたいな管理国家にしたいのか。単に、福岡や兵庫県民の問題ではない。いま日本人の資質が問われている。

NO.497 10年6月号
政権に大切なことは、人びとの閉塞感を除去すること

▼中曽根元首相が、選挙中の公約を翻して売上税を導入しようとしたとき、「公約違反」の嵐が吹き荒れ、1987年の統一地方選挙で自民党は惨敗した。その後、1988年12月に、竹下内閣が消費税を導入したとき、当時の社会党は「公約違反」を厳しく批判し、翌年の参議院選挙では与野党が逆転した。鳩山首相の政策変更は、明らかに「マニフェスト違反」であり、許されることではないと思う。

▼もし、私たちが嘘をついて他人の金品を騙し取ったならば詐欺罪でお縄になる。詐欺罪は、不当領得の意思が存在するので、犯罪が構成される。これを今の政治に当てはめるならば、「民主党は普天間飛行場を国外や県外に移す意思がないのに、選挙で票を得るために有権者に嘘をついた」ということになる。ただ、ここで悩ましいのは、鳩山さんが有権者に嘘をついたのは確かであるが、選挙のとき不当に票を得ようとする悪意をもっていたのかと言えば、必ずしもそれは明らかではない。したがって、「詐欺」にはあたらないのだと思う。世の中に沈殿している閉塞感は、こうした「詐欺ではないけど騙されたことには変わりないだろう」という、どこにぶつけていいのか分からない苛立ちなのではないだろうか。
▼普天間問題以外にも、高速道路を無料にすると言っておきながら、実際には値上がりになるような提案をしてきたり、取調べの可視化をすると言っておきながら、殺人など特定の犯罪の時効を廃止して、逆にえん罪を拡大してしまうような法改正をするなど、あまりにも安易な路線変更をしている。私は、以前の「公約」と今の「マニフェスト」のどこが違うのかよく分からないが、選挙の際には①必ず実行する公約(政権の理念)3本くらいと、②4年間を視野に入れて行うべき具体的な政策目標10本くらいでいいのでないかと思う。「あれもこれも」という哲学を欠いた今のマニフェストこそが、政策の混乱と不統一を招いているのだと考える。
▼参議院選挙で、古い自民党が復活するきっかけを、絶対に与えてはならない。公務員叩きばかりをしている政党(彼らはこれをアジェンダと言うが)が伸びることも、空恐ろしい。左団扇で天下っている公務員と、雨の日も嵐の日もごみを収集している公務員の区別もしないでいじめることには同意できない。
今の政権に大切なことは、人びとの閉塞感を少しでも除去することである。直ちに、後期高齢者制度を抜本的に改め、街中に溢れる監視カメラの根拠を明確にする法をつくり、障害者自立支援法を廃止する、そして「海兵隊は沖縄から出て行ってください」とアメリカに言えれば、政権に希望の光が見えると思う。

NO.496 10年5月号
一日も早く、人権先進国の仲間入りを

▼日中国交正常化後はじめて、麻薬の密売をしていた4人の日本人に対して中国で死刑が執行された。中国では、アヘン戦争の経験から麻薬が国を滅ぼすと考えられているので、とくに厳しい刑罰が適用されるというのだが、それだけではない。死刑大国である中国は、賄賂の授受や売春などの性犯罪についても死刑判決が下されることが多い。犯罪の撲滅のためには死刑が有効であるという思想が、司法当局のみならず人々の間にも根本的に存在している。中国で教鞭をとった日本人教師に聞いた話であるが、学生たちに死刑の是非を質問したとき、死刑廃止を支持するその教師に賛同する者はいなかったという。
▼4月3日、日中財務対話のために中国を訪問した菅直人副総理は中南海で温家宝と会談し、4人の死刑執行は「日本の基準からすると罰則が厳しいと思う人が多い」と、極めて婉曲的な表現で「懸念」を表明した。できたら執行してほしくないという、軽い「お願い」レベルの言い方である。また鳩山首相は、ワシントンで開かれている核安全保障サミットにおいて、4月12日に胡錦濤国家主席と会談した際、死刑の執行について何も言及しなかった。自国民が中国人に比べて不当に厳しい刑罰を課されたわけではないので、たしかに国際法上は抗議できるものではないのかもしれない。しかし、死刑という全人格を否定する残虐な刑罰に対して、口にチャックをすることは国際スタンダードからして正しいのであろうか。メディアも、中国国内における適正手続きの欠如や拘置施設内における非人道的な死刑囚の処遇については批判をしていたが、死刑の執行に対する異議はかなりトーンが低かったように思える。
▼日本が中国に対し毅然とした発言ができない理由は、日本自身が死刑存置国であること、国際社会からたびたび批難されている代用監獄制度があること、先進国では例を見ない被疑者を長期拘束(23日間)している国であることなど、刑事司法上様々な不備がある人権後進国であることに起因する。先般、オーバーステイのガーナ人男性を強制送還させる際、タオルと手錠を使い、暴力により死亡させた事件も起きている。入管職員が白昼堂々と殺人をするような国に、他国を批難する資格も能力もない。
▼日本には立派な憲法がある。民主的に議員を選べるシステムもある。しかし、公正に選ばれた議員は、警察や検察、司法当局などの公務員の暴走を止める力をもたず、ときにはそれに加担する悪法をつくっている。いつまでも、国連やEUから批判される国であってはならない。一日も早く、人権先進国の仲間入りを果たすことを願わずにはいられない。

NO.495 10年4月号
表現の自由と公共の福祉について

▼東京都青少年育成条例の改悪案が都議会に提出された。アニメやゲームや漫画に登場する架空の子どもキャラクターでも、「青少年の性に関する健全な判断能力を阻害するもの」の中で、「著しく社会規範に反する行為を肯定的に描写」した作品について、東京都青少年健全育成審議会が「不健全図書」と指定すれば、18歳未満の者には販売が禁止される。PTA協議会と警視庁が結託して、表現の規制強化を目論んでいる。彼らは、「過激な漫画を読んだ子どもに誤った性の知識を与える」「常識や価値観が幼い時から歪められる」などと言うが、自殺や殺人や強姦などの場面が山のように出てくる「火曜サスペンス劇場」を見て育った子どもが、非行や犯罪に走るだろうか。そもそも、行政側が「判断能力を阻害する」とか「社会規範に反する行為」を、一方的に決められるはずがない。
▼「表現の自由」という人権を制約するときには、必ず対立する人権を擁護する目的が必要である。ポルノ表現では、描かれた者の人格権が保護法益となるので、「公共の福祉」の作用によって表現者の自由が制限されるのである(内在的制約論)。しかし、被写体が架空の人物の場合は、そもそも保護すべき法益は存在しないのであるから、法律論からいってもこれを規制することはできない。もし石原知事が真の作家ならば、条例案は撤回すべきである。
▼もうひとつ、「インターネット端末利用営業の規制条例」案も都議会に提出されている。客がインターネットカフェを利用する際に、身分証の提示を義務付けるという考えられない法規である。警視庁は、「匿名性を悪用したネット犯罪の防止」「安心してネットカフェを利用できるように」と理由づけるが、個々人を強権的に管理しようとする意思以外の何ものでもない。寝る家をもたない者が、身分証明書などを持っているはずがない。盗難の未然防止などは自己管理の問題であり、喫茶店に入る許可を警察から得る必要などまったくない。
▼郵便不正事件裁判で、厚生労働省の村木厚子元局長のえん罪可能性が極めて濃厚になった。警察が違憲立法製造機ならば、検察は架空事件製作所である。こんなに息の詰まる社会はない。勘違い甚だしいPTAの諸氏に言いたい。
「あなた達が酷評した腰パンの国母選手は、重い?液病の友人を助けるため、寄付集めに奔走して、海外での移植手術を支えたことを知っていますか。青少年の健全育成とは、エロマンガを見せないことではなく、清濁併せ呑む力を育む中から、本当の“優しさ”を学びとらせることではないでしょうか。」

NO.494 10年3月号
公訴時効制度の見直しについて

▼法務大臣の諮問機関である法制審議会が、公訴時効制度の見直しを正式決定した。今月中にも法務大臣に答申し、政府は今国会に刑事訴訟法「改正」案を提出しようとしている。殺人などの時効を廃止し、強姦致死、傷害致死、自動車運転過失致死などの時効を倍の年数に延長して、時効が進行中の事件にもそれを適用するという。厳罰化を求める近年の世論を背景に議論がなされてきたが、私たちはこの際“時効とは何か”を冷静に考えるべきだと思う。
▼公訴時効の制度がなぜあるかは諸説ある。一般的には①時とともに犯罪の影響がなくなっていくとする実体法説、②時間の経過によって証拠や証言が取りづらくなって事実認定が困難になるという訴訟法説や誤判防止説、③現金の盗難で会計責任者が横領犯視される状態を永久に続かせないためのものとする新訴訟法説などがある。時効の撤廃に関しては、殺人などの場合遺族の悲しみは時とともに薄れることはない、DNA鑑定など科学の進歩で証拠の保存はかなり可能になったなど支持する意見があるが、本当にそうであろうか。
▼たしかに遺族の悲しみや憎しみの感情はよくわかる。だが、犯罪被害者遺族は特殊な社会的立場にあり、かの人たちの気持ちを社会全体が代弁してしまったら、世の中は「報復の連鎖」で凝り固まってしまう。私たちがやるべきことは「擬似被害者」になることではなく、被害者家族を支援することである。現行の犯罪被害者給付金は不十分なので補償制度を創設することや、心のケアーや住宅、就職などの助成や斡旋などが、自治体や地域社会、NPOなどに求められている。また科学技術の進歩は目覚しいが、立件するには犯罪を裏付ける正確な証拠や証言が必要であり、そのための捜査を継続するには人やお金は莫大なものを要する。何が何でも立件しようとすれば、無理な自白に頼ってえん罪を生む結果になるであろう。
▼さらに、この法律を遡及して適応することは明らかに憲法39条(遡及処罰の禁止)に違反する。審議会では「時効まで逃げ切れば処罰されないという期待は保護に値しない」と結論したそうだが、憲法はフランス人権宣言以来の罪刑法定主義の重要な一側面を要請している。こんな法律がまかり通ったら、私たちは常に予測不可能な不利益に怯えながら生きていかなくてはならなくなってしまう。
▼朝青龍の退職金の話題の影で、とんでもない事態が進行していたことに気付いてほしい。身内が殺されたら、「とにかく犯人を逮捕しろ」「死刑にならないのなら俺が殺してやる」という感情になるかもしれないが、それでは何も解決しない。「万人の万人に対する闘争」のような社会を皆が是としてしまえば、社会は崩壊する。社会全体で暖かく遺族を支援して、やがて許しの心が芽生える環境をつくることが、私たちの務めではないだろうか。

NO.493 10年2月号
国家テクノクラートとの戦争

▼現職の国会議員を含む小沢一郎氏の側近が逮捕され、永田町は大揺れである。「西松事件」に続く陸山会土地購入問題への検察の捜査は、明らかに恣意的であり悪意を感じる。小沢氏の政治手法や体質あるいは党運営を批判的に見て、その小沢氏に説明責任を求める人が多いようであるが、この時期にそのような議論をすべきではない。形式犯の容疑事実で元秘書らを逮捕した検察の真の狙いは、明らかに小沢氏の失脚と民主党の瓦解である。
▼いま検察が恐れているのは、政権交代によって(1)「取調べの全面可視化」が導入されて今までの検察の悪事がばれること、(2)外国人に地方参政権が付与されることで国体が崩れると懸念していること、(3)辺野古移転が頓挫して日・米・中の軍事バランスが崩れることであろう。これらを阻止して民主党政権を潰そうとする極めて政治的な行動であると同時に、検察官僚機構を必守するための自己組織防衛なのは明らかである。1月16日の民主党大会で、鈴木宗男氏は「検察が正義だと思ったら大間違い。断固闘っていこう」と挨拶した。正しい指摘であり、民主的正当性のない検察のストーリーで思い通りに法を運用させては、民主主義の基盤が完全に崩壊してしまう。
▼検察は「自分だけが正義である」と勝手に思い込み、リークという国家公務員法に違反する情報漏えい行為を繰り返してマスコミを操る。腰抜けマスコミは時の政治情勢を分析もせずに、ただ検察権力に迎合して情報を垂れ流するばかりである。「どうぞ闘ってください」と言った鳩山首相の発言を「検察批判」だというが、「西松事件の捜査は自民党には及ばない」と言った漆間的官僚体質と闘わない限り、公正な社会は望めないはずだ。裁判員制度の導入で「発表ジャーナリズム」から脱却しなければならないのに、旧態依然のメディアは自分の頭で何も考えていない。さらに共産党や社民党まで、「首相は検察が公正な捜査の環境をつくる責任がある」などとピンボケなコメントをしないでほしい。
▼アメリカでも、大統領が変わったら事務方の行政上層部は一掃される。民主党は、政権をとったときになぜ検事総長のクビを取らなかったのか。自民党とつるんでいる漆間氏さえ生かしたことも理解できない。今まさに、検察官僚をトップとする国家テクノクラートとの戦争である。民主党から共産党まで、一致して検察ファッショと闘う時である。

NO.492 10年1月号
マザーテレサやマンデラ元大統領の生き方を学ぼう

▼11月30日、最高裁は葛飾ビラ配布事件の上告を棄却する判決を言い渡した。「開いた口が塞がらない」という言葉は、このためにあるのかと思うような理屈である。「部外者の立ち入りを禁止しているから住居侵入罪に該当する」というのは、「猛犬に注意」と門柱に張れば、犬が来客にかみついても責任はない、と言っているようなものだ。どこのマンションでも「ビラの投函お断り」の看板は出ているが、それはエントランスの美観を損ねないよう注意を喚起したいという居住者の意思であり、ビラまきに来た人を刑事罰に処することを期待したものではなかろう。ピザや弁当のチラシを撒いて逮捕されたという話は聞いたことがないので、共産党や反戦市民団体を弾圧したいという権力の明確な意思である。それに追随する御用判決しかだせない裁判所ならば、司法としての意味はない。常識の通じないヒラメ裁判官ばかりなら、裁判員裁判よりもいっそのこと陪審制にしたらどうだろうか。
▼もうひとつ、あきれてものがいえないことがある。オバマ米大統領がノーベル平和賞受賞演説で、「武力は人道的な理由で正当化される」と言って、人道目的の戦争を肯定したことである。アフガニスタンへの3万人の増派をした自分への擁護(あるいは言い訳)であろうが、どんな理由があろうと武力の行使は許されない。戦争で犠牲になるのは、常に罪のない市民や女性・子どもたちである。「オバマさん、“人道”が理由ならば、チベット人をいじめている中国を攻撃しなければいけなくなりますよ。テロリストと同じ土俵で勝負することに、何の意味があるのですか」。
▼中東の地域がなぜ不安定で暴力にまみれているのか、元をただせばアメリカが行ってきた差別や壟断や覇権が原因であろう。にもかかわらず、暴力に頼り戦争に執着している姿勢は、平和賞受賞者の姿とは程遠い。昨秋、祈るような気持ちでオバマの当選を願っていた一人として、この演説は涙が出るほど悔しい。
▼ビラまきが犯罪だという軽薄な裁判官も、よい戦争もあると考える大統領の愚かな発言も、人間の弱さゆえであろう。権威や権力に阿って、本当の強さを見誤っているから、正義を履き違えた判断しかできないのだと思う。年頭にあたって、もう一度マザーテレサやマンデラ元大統領の生き方を学ぼうではないか。

NO.491 2009年12月号
もっとリベラルな世の中へ

▼大阪拘置所にいる林眞須美さんに、毎月マスコミ市民を贈っている。以前に眞須美さんが手記を寄せてくれたので些細な御礼の気持ちで進呈しているのだが、拘置所は8月より受け取りを拒否し続けている。その理由は、「法令により、当所においては受け取ることができません」という、極めて雑駁なものだった。納得がいかず、「(1)「法令の規定」とは具体的に何を指すのか、根拠となる法律、省令、政令等の諸法令をお示しください、(2)根拠法令があるとすれば、それは拘置者の処遇上何を目的とし、過去にどのように運用されてきたのかを教示ください」と文書で申し入れ、9月30日までに回答を求めたのだが、まったく梨の礫で手紙も電話もメールも一切ない。こうした法務当局の不誠実な態度が、許されていいものだろうか。眞須美さんは一貫して無実を訴えており、新証拠を見つけて再審請求にかすかな希望を託している。カレー事件の経緯を知っている者は、警察が証拠のヒ素を捏造したことをほぼ確信している。詐欺罪で死刑にされようとしている眞須美さんはおそらく毎月本誌を手にとり、「えん罪で酷い目にあっているのは私だけではない」と自ら鼓舞しているであろうに。大阪拘置所の山口博康さん、反論でも弁解でもあれば、誌面を提供させていただきたいと思います。
▼ところで、11月に入ってから東京は物凄くガラの悪い街になった。12日の天皇即位20年式典、13日のオバマ大統領の来日で、駅も地下道も警察官が我が物顔で歩いている。裕仁が今の天皇でブッシュが今の米大統領ならば、(ともに戦争犯罪者であろうから)物騒なことを考える人もいるだろう。しかし、平和憲法を守ると明言している天皇の式典と、ヒロシマ・ナガサキに対する道義的責任を認めた大統領の来日に際して過剰警備をすることは、国家権力が市民を信頼していない証である。政権も変わったのだから、もっとリベラルな世の中になってほしいものだ。
▼最後に、英会話講師のイギリス人女性を殺害した疑いで逮捕された市橋達也容疑者の報道について一言。
大阪から千葉へ護送されるとき、新大阪駅でのメディアスクラムには驚かされた。容疑者の顔を撮影することが、どれだけ市民の「知る権利」に奉仕するのだろう。NHKまで朝から晩まで同じニュースを流していたが、裁判員裁判の導入で、犯人視報道を改めるのではなかったのか。また、警視庁が定めた公的懸賞金制度で、彼に対する情報提供には1000万円かけられているようだが、警察への協力とは、本来人々の善意や正義感からくるものだろう。金に釣られて密告しあう社会は、気持ち悪いしリベラルでない。事件をきっかけにそうした問題提起をした番組は、まだ見ていない。

NO.490 09年11月号
議員の質

▼新政権が発足して2ヶ月が過ぎた。八ッ場ダムの建設中止、羽田のハブ空港化、モラトリアム法案など、ワイドショー的な話題には事欠かないが、国会に関して気になることが三つある。一つ目は、「小沢チルドレン」たちの新人議員研修である。幼稚園児のように名札を付けさせ、一から政治の手解きを教えているという。テレビのインタビューで、「当選するとは思わなかったので事務所も作らなかった」と堂々と答える75歳の新人議員、「朝6時に起きて研修に備えた」という28歳のイソ弁出身議員を見て、「人生いろいろ、会社もいろいろ」という迷言を思い起こした。「議員もいろいろ」だろうが、国民の負託を受けた公人ならば、議会の慣例や国対のルールは自分の頭と足で勉強してほしい。手取り足取りで新人議員をしつける光景は、実に情けない。
▼二つ目は、政治主導・国会活性化の名目で、官僚(政府参考人)の答弁を禁止する法律を制定する問題。官僚依存の自民党政治に多くの弊害があったことは理解するが、閣法として提案された法律案については、政府の責任において国会に説明する義務がある。そのときに大臣の指示があれば、細部のデータなどは官僚が説明するのは当然である。民主党は政治主導の意味を履き違えている。
▼三つ目は、議員立法や本会議・委員会での与党質問を制限しようとする動きである。憲法は、議院内閣制を前提に国会を国権の最高機関・唯一の立法機関と位置付けている。(41条)「政治的美称」という批判的学説はあるが、閣法はあくまで例外であり、議員提出法案が基本だという本来の姿を忘れてはならない。与党だから政府に質問しないのなら国会など必要なくなる。民主党は、ここでも政治主導を誤って解釈している。
▼民主党中心の新政権には政策的に共鳴する部分は多いが、体質的には問題が多すぎる。国会を園児のチイチイパッパ状態にして、かつての自民党陣笠議員のリニューアル版をつくりたいのであろうか。4年前の「小泉チルドレン」たちも破天荒な発言で物議をかもしたが、こうした稚拙な議員を生み出した背景には、小選挙区比例代表並立制という選挙制度がある。第一党が少しでも優位な得票を得ると、地滑り的な結果をもたらす。ゆえに、名簿に名前を貸しただけのド素人議員が当選してしまう。そういう者を選んだ国民が悪いとばかりはいえない、制度の問題である。議員に当選した者は、翌日から即戦力にならなくては、単なる税金の無駄遣いである。議員の質を向上させるには、中選挙区制に戻すか、あるいはドイツ型の比例代表併用制しかありえないと思うのだが。
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NO.489 09年10月号
社会の民主化と金大中氏ついて

▼8月18日、韓国民主化運動の指導者で元大統領の金大中氏が逝去された。驚きと悲しみをいだきながら、私が学生だった頃、韓国の民主化を求め「日韓民衆連帯」の旗をもって池袋をデモしたことを思い起こした。また15年ほど前に韓国民主党を訪問した際、多忙な金大中氏と唯一お会いできる機会を逃した心残りも思い出した。(それでも、そのとき金大中氏の代理だとおっしゃって当時の李基沢共同代表とお話しすることができた。)金大中氏は偉大な人物だと思う。「私は、私の命を奪おうとした人たちをすべて許した。71年の偽装交通事故危険、73年の東京でのKCIAによる拉致事件、80年代の容共工作など。私は、罪を憎んでも人を憎むなという言葉を心に刻んで生きてきた」(92年10月14日)、深い言葉である。実際、自分の命を狙った金鐘泌元首相とも手を握った。
▼昨今の日本社会を振り返ると、金大中氏の「許しの哲学」がいかに欠如しているかがよくわかる。少年犯罪に対する執拗なまでもの厳罰化、裁判への被害者参加制度の導入による「憎しみの連鎖」の扇動、感情的なプレゼンテーションによる演出された裁判員裁判、「時効の撤廃」議論に見られる報復感情の助長など、「許し」や「和解」とは正反対な世相である。おそらく、このような空気に違和感をもち、時代の針を元に戻してはならないと考えている人は、少なからずいると思う。しかしその声が大きくならないのは、正しいと思っても場の空気に配慮して正直に意見を表明しない日本人の「やましき沈黙」(中谷巌氏「東京新聞」8月29日)である。金大中氏は、「日本に足りないものがあるとすれば、戦って?を流し民主化を手にしたわけではないこと」だという。その通りで、日本人は人権の制約に対してあまりにも無頓着で無関心だと思う。
▼さて政権交代が起こり、「やましき沈黙」は破られ世相や空気は変わっていくのであろうか。9月5日の朝日新聞「声」欄に、民主党が提唱している国家戦略局の改名を訴える投書があった。戦争にも通じる「戦略」という言葉ではなく、「ビジョン」や「デザイン」、「構想」を使うべきとの主張である。まったく同感だ。国家戦略や国家利益といったとき、過去いかに多くの過ちを犯してきたか、胸に手を当てて考えるべきであろう。鳩山首相が「友愛」(おそらくフラドルヌテの意味であろう)の社会を目指すならば、憎しみと対立と復讐の連鎖を生むがごとき法律は廃止し、菅さんを「未来社会構想局」担当大臣に指名されたらどうだろうか。

NO.488 09年9月号
ウルトラ加熱報道ばかりでは・・・

▼総選挙直前の大事な時期に、のりピーこと女優の酒井法子さんの覚せい剤所持・逮捕事件が、異常なまでに過熱報道された。新聞は一面トップ並み、NHKも含めてテレビニュースも熱狂した。当初は身延山まで追いかけていき、あたかも自殺防止を呼びかけるような「追跡捜索報道」であったが、逮捕状が出るや否や、今度は「弟がやくざの組員だ」「クラブで踊り煽っていた」といったバッシングの嵐であった。有名人ゆえに、最初の2~3日は報道に熱が入るのも仕方ない一面もあろうが、彼女を叩く報道がここまで長期に続くのは常軌を逸している。テレビは公共の電波を著しく浪費して彼女をいじめ抜き、新聞も限りある紙面を芸能・ゴシップネタの記事に割いている。メディアがやるべきことは、彼女の事件をきっかけに、薬物依存症の人をどのように更生させたらよいのか、また社会復帰までの支援策はどうあるべきなのかについて紙上やスタジオで討論し、読者・視聴者に議論の素材を提供することではないだろうか。
▼ちょうど同じ時期、はじめての裁判員裁判が東京地裁で開かれた。このときもマスコミ各社は、裁判員制度の長短を冷静に報じるのではなく、連日に渡り「見せ物」のような晒し報道を繰り広げた。「初日に何も質問しなかった裁判員が、二日目に裁判官に促されて発言した」などというくだらないことがビックに扱われたのには驚いた。メディアには素人の裁判員が、被害者感情や裁判官の意見に流されず公正な評議ができたのかを検証してもらいたかった。私自身は参審制度の意義を否定する立場ではないが、プロ野球の中継と同じレベルで放映されては、市民は制度の意義を熟考することもできない。二回目の裁判後の記者会見で評議の内容にかかわる質問が出た際、裁判所職員が裁判員の発言を制止したが、憲法の根幹にかかわるこうした「大事件」を、メディアは大きく伝えようとはしなかった。様々な難題を抱えながら出発したこの制度をもっと議論していくことが大切であり、そのサポートこそがメディアの役割であろう。官製ルールのプロパガンダに与することなく、「司法への市民参加」は実現しえたのかを知らせてほしかった。
▼エモーショナルなのりピー報道とセンセーショナルな裁判員報道に接し、メディアの劣化を深刻に憂慮している。二つのウルトラ過熱報道は、明らかに市民を思考停止状態に誘導している。鳩山故人献金事件や二階俊博と検察権力との露骨な癒着関係など、総選挙前に報道すべき政治ネタは山ほどあったはずである。スポーツ紙と同じレベルの新聞ならば、高いお金を出して宅配してもらう必要がないと感じてしまうのは、私だけなのであろうか。

NO.487 09年8月号
若い人に期待する票と地道な活動を評価する票が相半ばしながら政権交代を

▼8月30日の予告投票日に向かって、総選挙モード一色となった。このたびの解散は、亀井静香氏が言うとおり「自民党解散みたいな解散」であり、「自民党の終わりの始まり」のための解散である。私がそう確信するのは、日本社会党の崩壊を内部から見た経験から、肌で感じるものがある。この間の自民党議員の蜂の巣を突付いたような騒動は、土井たか子委員長の末期から山花貞夫、村山富一と、崖から一気に転げ落ちた当時の社会党の空気に酷似している。若手の押さえが利かなくなり、署名活動が氾濫し、ちぐはぐで決断ができない思考停止の執行部、まさに政党が崩壊するときとはこういうものである。思い起こせば、消費税とリクルート事件で歴史的大勝をした社会党と、郵政選挙で極限まで水ぶくれになった自民党、あまりにも似ているではないか。最後の馬鹿力を発揮したあとは、人のみならず、政党も息が絶えるものだ。
▼7月12日に行われた東京都議選の結果には驚いた。それは、民主党の大勝でも自民党の惨敗でもない。有権者の政治リテラシーのなさに、である。政権交代の流れの中で、民主党に票が集中したのはよく分かる。しかしどの選挙区を見ても、昨日今日手を挙げた新人が圧倒的な得票をして、実績を積み地元に貢献してきた現職は総じて得票数が低い、若しくは落選している。これは、裏を返せば日常活動など不必要ということであり、ただ若くてイケメンならば評価されるということである。「金権政治に手を染めたベテランよりも、役に立たなくても悪いことをしない兄ちゃんの方がまし」という評価もあるだろうが、これを「閉塞感の表われ」という一言で片付けていいのだろうか。若い人に期待する票と地道な活動を評価する票が相半ばしながら政権交代しなくては、成熟した民主主義とはいえない。ヤケクソの一票など、薄っぺらな感情の塊にしか過ぎず、ファシズムにも通じるのだと思う。
▼報道によると、都議選立候補者に「尊敬する人は誰か」というアンケートをとったら、最多得票をしたのは歴史上の人物ではなく「父親」だったという。小学生の作文ならばいざ知らず、自分の父を尊敬すると本気で思っている人が都議候補なのか、驚いて腰が抜ける思いだ。親は感謝や敬愛の対象であって、リスペクトであろうはずがない。その程度の思考の振り分けもできない候補者、そして冷静なジャッジメントもできない有権者、仮に政権交代が起きたとしても、トンネルの先にはしばらく明かりは見えてこない。

NO.486 09年7月号
極端な監視・管理社会と偏狭なナショナリズムが甘受される世の中

▼17年間もの間、無実の罪で囚われていた菅家利和さんが釈放され、世にえん罪の恐ろしさを知らしめた。同時に、「取り調べの可視化が絶対に必要だ」との認識が、かなり広範に広がった。いまだに警察・検察は、四の五の屁理屈を並び立て、録音・録画を拒否している。国民を監視することには熱心であるが、自分たちが襟を正す姿勢は微塵もない。あくまで「可視化」を拒否するのならば、弁護士立会いでなければ取調べができないように法改正をすべきである。民主党よ、政権をとったらがんばってほしい。
▼菅家さんは、「取調官に髪の毛を引っ張られ、暴力をふるわれた恐怖で嘘の自白をしてしまった」と言っている。栃木県警は謝罪するだけではなく、菅家さんを取り調べた警察官を明らかにすべきである。特別公務員職権濫用の罪に当たる人物が署内にいるのに、「知らん顔のはんべい」はなかろう。この際、大手メディアも当時の警察官、検事、裁判官の実名を、ぜひ報道してもらいたい。無名の民間人も容疑者段階で実名報道されるのだから、公務員の氏名を書いても矛盾はない。
▼ところで、「足利事件」の陰であまり報道されなかったが、足立区の公園で深夜に若者がたむろするのに手を焼いた区当局が、高周波音発生装置を設置したというニュースには驚いた。10代から20代前半の人たちにだけ聞こえる蚊が飛ぶような不快音を、周囲数十メートル四方に発生させるというのだが、この発想はベープノンマットで駆逐される蚊と若者を同列に扱うものである。
▼たしかに、一部の若者には犯罪行為もあるので、適正に処罰すべきである。しかし、蚊やハエを追い払うような手法は、どう考えても見識を疑う。先般、広島少年院の教官が4人の収容少年を虐待したことが報じられていたが、「若者なんかどう扱おうと勝手だ」という意識が、世の中に蔓延しているような気がしてならない。
▼2006年に最高裁司法研修所が行った調査で、「殺人事件の被告が少年の場合、成人よりも刑を重くすべきか」という質問に対して、「刑を重くする」が12・3%、「やや刑を重くする」が13・1%であった。つまり国民の4人に一人は、「大人の犯罪よりも子どもの犯罪を重く罰しろ」と言っているのである。そこには、未成年を庇護しよう、人格の成長を支援しようという思想はなく、力ずくで管理・殲滅しようとする発想である。いじめ、やっかみ、バッシングが社会に蔓延り、極端な監視・管理社会と偏狭なナショナリズムが甘受される世の中になっている。私たちの国は、いま完全な「負のスパイラル」に陥ってしまった。

NO.485 09年6月号
「なんでもあり」の社会

▼SMAPの草彅剛さんが、公然わいせつ容疑で逮捕され、家宅捜索されたことで波紋が広がった。この「事件」は、いまの日本で警察、マスコミ、裁判所がどういう位置関係にいるのかを示したわかりやすい事例である。
▼そもそも草彅さんの行為が、公然わいせつ罪の構成要件に該当するのであろうか。刑法174条は、「公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは30万以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する」と定めている。「公然」とは、不特定または多数の者が認識できる状態(最決昭32・5・22刑集11巻5号1526頁)をいい、「わいせつ」とは、人をして性的な羞恥ないし嫌悪感をいだかせる性質であり、保護法益は性秩序ないし公衆の性生活に関する善良な風俗(大谷實「基本法コンメンタール改正刑法」213頁)である。深夜の公園で酔って裸になったとしても、多数の人が認識できるわけでもなく、嫌悪感を抱くわけでもない。
▼草彅さんの行為は褒められるようなことではないが、せいぜい軽犯罪法1条20項に違反する程度である。世論の批判で結果的に起訴猶予にはなったが、これで逮捕されるならば、花見で盛り上がっている上野公園のサラリーマン、早慶戦の後の早稲田の学生、阪神が優勝したときの道頓堀のオッサン、すべてお縄にしなければならなくなる。権力の行使とは、すぐれて謙抑的でなければならない。
▼マスコミの姿勢も疑問だ。テレビではテロップまで流して臨時のアナウンスをし、新聞は各社一面トップの扱いである。たしかに草彅さんは人気タレントだが、政治家の汚職事件や国策捜査が横行していた時期に、これがトップニュースだろうか。中川昭一がバチカン博物館で美術品に手を出して国際的な大ヒンシュクをかったときには、社会面での小さな扱いだったと記憶している。
▼そもそも、どこにでもいる酔っ払いのトラを家宅捜索までした横暴を許した原因は、裁判所にある。警察が権力を濫用しようとも、裁判所が令状を発行しなければ秩序は保たれる。逆に言えば、裁判所が令状の自動販売機になっているから、いまの「なんでもあり」の社会ができたのだ。幅を利かす警察権力に追随するマスコミと腰抜けの裁判所の二等辺三角形の実態を変えない限り、総選挙でいくら政権が変わっても世の中の実態は良くならない。
▼メディアは草彅さんに対する過剰報道を批判され反省していると思いきや、またもや「新型インフルエンザ」で馬鹿騒ぎを繰り返している。5月5日の「ニュースリアルタイム」(日テレ系)、16時59分から仰々しいマスクをつけたアナウンサーが現場レポートの形をとり、後ろに大きなマスクをつけたサクラを二人立たせたヤラセ撮影には驚いた。また国会見学の中学生にマスク着用を要請したが、院内で首相も議員もマスクはつけていないのは、どういうことか。

NO.484 09年5月号
「人のふり見て我がふり直せ」

▼北朝鮮のミサイル騒動に接し、日本人のメディアリテラシーのなさを思い知った。否、日本国籍を有する自分が情けなくも思え、悲しい気持ちで一杯になってしまった。ミサイルであれ人工衛星であれ、打ち上げない方がいいに決まっている。「飛翔体」が仮に民生利用だとしても、自国民も充分に食わせていけない国家指導者に、巨額の国費を投じる資格はないはずだ。でもそれは、インドやパキスタンや中国の核開発にも当てはまることであり、北朝鮮だけが責められるものではない。
▼アメリカが人工衛星を打ち上げたとき、あるいは核実験を行ったとき、なぜ今回のような大騒ぎをしないのであろう。おそらくそれは、日米間に一定の信頼関係があると勘違いしている人が多いので、軍事的脅威とは受け取らないからであろう。しかしよく考えれば、アメリカは広島・長崎に原爆を投下して人体実験を行ったサイテイの国ではないか。気にいらなければアフガンもイラクも攻撃し、子どもを含め民間人をも殺傷した野蛮な国である。何を仕出かすか分からないアメリカに対しては平然としており、日本の40分の1程度の国家予算規模でしかない北朝鮮には、蜂の巣を突付いたような騒動である。吉田康彦氏が「大山騒動ネズミゼロ匹」と書いておられたが、まさに的を得ている。
▼今回の騒ぎは、政府がバカ騒ぎをして恐怖感を扇動し、それを無批判にマスコミが垂れ流し開戦前夜のような空気を醸成し、まやかしの情報を受け取った国民も何一つ考えずに「北憎し」の感情を露わにしていった。どんなに遅くとも9月までには衆議院解散がある政治状況の中で、自公政権を延命するには外に敵を作るしかないことなど、一歩立ち止まって考えればすぐに分かるはずだ。この騒動でほくそえんでいるのは、支持率急落に歯止めがかかった麻生太郎と、「6カ国協議」の再開条件で「日本外し」の環境を整えた金正日ではないか。
▼日本人は、どうしてここまで朝鮮人を嫌うのだろうか。その理由は、近親憎悪にあるのだと思う。監視カメラで縛られた管理社会を積極的に歓迎したり、何でもお上や警察に頼ろうとする国民性は、「偉大なる将軍様」として金正日を個人崇拝する北朝鮮の体制と瓜二つである。多くの日本人は、北朝鮮を見ていると自分の醜い部分を鏡に映されているようで、堪えられない嫌悪感を抱くのではないだろうか。「人のふり見て我がふり直せ」という諺がある。朝鮮人に対して心を開き握手を求めたとき、日本人は大きく成長するような気がする。

NO.483 09年4月号
冷たい国家をつくった元凶は・・・・・・

▼西松建設の不正献金事件が、毎日のようにマスコミを騒がしている。小沢一郎民主党代表の秘書が逮捕され、「何でこの時期に」という声が出ると、検察は渋々二階俊博経産相へも捜査の手を伸ばした。職務権限のない小沢氏だけをターゲットにした捜査は、誰の目から見ても、与党に有利な選挙を誘導する策略でしかない。小沢氏の錬金術の良し悪しは別にして、野党は毅然として検察の「国策捜査」と闘うべきである。
▼小沢氏は、クリントン米国務長官と会談した際、「アメリカの極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分」と発言した。官邸はこの発言を敏感に感じ取り、日米軍事一体化を狙う政府方針のもと、官房副長官の威を借りた漆間巌が、検察当局に「ささやき」を入れたのであろう。「自民には飛び火しない」という「オフレコ発言」は身に覚えがあるから出てきた言葉であり、今になって「記憶と記者の受け止め方にズレがあった」などと白を切っても、通用するはずがない。
▼そもそも漆間という人間は、警察庁長官時代に「取り調べの可視化」について「検察に追随する必要はない」と強く拒否し、容疑者のDNAデータベース化を「新しい法律なしでもできる」と言うなど、きわめて非民主主義的な反動官僚である。この人間のせいで、今のような警察主導の管理社会ができ、多くの市民が萎縮して暮らすことを余儀なくされた。言ってみれば、社会に閉塞状況をもたらした悪性の癌である。
▼参議院民主党は、「地検が捜査している最中に、事件に関する供述内容や証拠物件がリークによって報じられているのは許せない情報操作」だとして、桶渡検事総長の事情聴取を検討している。リークというと聞こえはいいが、要は情報漏えいであり公務員の守秘義務違反である。今までの国策捜査は、基本的には官邸と関係のないところで行われていたが、今日の事態は官邸と捜査当局の謀議の可能性が極めて濃く、政権交代を阻止しようとする政治謀略である。民主党は、国家公務員法違反で検察官僚を告訴してもらいたい。
▼ところで、このほど入管当局は埼玉県蕨市のフィリピン人一家の父母に対して強制退去を命じ、親子を分断した。「法律を守れ」だの「最高裁の処分が確定している」だのいう輩がいるが、国は国内法以前に国際法(“子どもの最善の利益”を保障した「子どもの権利条約」)を遵守する責務がある。親子3人で暮らしたいというささやかな願にも耳を傾けない違憲の行政は、実に情けない。こうした冷たい国家をつくった元凶は法務当局だけではなく、漆間巌のような警察官僚でもある。

NO.482 09年3月号
思いやりのある社会に

▼昨年末、オリックス不動産へ一括譲渡されることが決まった「かんぽの宿」が、総務大臣の鶴の一声で白紙に戻った。発言の意図は所詮「郵政票」欲しさであろうが、譲渡に疑問を呈したことで議論の素材を提供してくれた。この間のワーキングプアや非正規問題の表面化で、人びとはようやく「構造改革」の影の部分に気が付いた。そして今回の「かんぽの宿」の一括譲渡問題で、「構造改革・規制緩和とは、政財界がグルになって仕組んだ竹中平蔵と宮内義彦のマッチポンプ」の大猿芝居であったことが白日に晒された。
▼また、経団連の会長・御手洗富士夫の秘書役である大分の建設ブローカーが、脱税の容疑で逮捕された。報道によれば、彼が経営する3つのグループ会社は、受注の95%がキャノン関連の工事で利益を得ており、脱税と不正蓄財で集めた資金の大半はキャノン株の購入につぎ込んでいたという。御手洗は、このブローカーにゴルフの手配までさせていたほど親密であったにも関わらず、「私もキャノンもなんら関与していない」「長年の友人だが弁護する気もない」とうそぶいている。長い間付き合った鞄持ちが逮捕されたときくらい、情けを施すのが人の道であろうに、そんな人情は微塵もない。「百姓と菜種油は絞れるだけ絞れ」という諺の如く派遣社員や期間工を酷使し、景気が悪化したら「やむをえない事情がある」といって派遣切りをした男ゆえ、さもありなん。
▼話は少し飛ぶが、若麒麟関が大麻所持で逮捕されたとき、「若く将来があるので除名ではなく解雇」という相撲協会の決定が甘いとして、世論は厳罰を求めた。結局本人からの辞退で退職金相当額の500万円は返還されたが、あの時のメディアの騒ぎ方や風評は、昨今の「いじめ社会」化現象そのものであった。25歳が「若い」か「大人」かは、人によって判断が異なるであろうが、あの現象は他人の退職金に対する単なる嫉妬であり、集団虐待心理以外の何ものでもない。小泉・竹中・宮内・御手洗らによってつくられた弱肉強食社会が、人の心まで_んでいるように思えてならない。
▼ここ数年来、多くの人は「改革」という美名に踊らされ「民営化」を賛美してきた。同時に、人々は「自己責任」の風潮に支配され、人間としての優しさを失っていった。しかし「改革」の正体はハゲタカ資本への利益誘導手段でしかなかった。せめて若麒麟に「頂いた500万円で人生やり直すんだよ」と、声を掛けてあげられるくらい思いやりのある社会に戻りたい。

NO.481 09年2月号
えん罪の可能性がある被告人を一人でも多く救おう

▼驚くべき新聞報道を目にした。横浜地裁の裁判官が、傷害罪に問われた被告人に対して、初公判の被告人質問で「刑務所に入った人間と友達というのは普通考えられない」「当然付き合いはなくなりますよね」と発言したという。また神戸地裁では、傷害致死に問われた被告人に対して、殺人容疑ではないのに「(あなたは)『被害者が死んだ』と言っているが、あなたが殺したんでしょう」と、発言したという。日本の裁判官の質は、あまりに酷すぎる。起訴されたら99%は有罪で真理を見ない刑事裁判、当局に不利な判決はまず出さない行政裁判、政治判断はすべて統治行為論で逃げる卑怯な裁判官、えん罪事件の反省など微塵も感じない裁判官等々、私たちの常識とはかけ離れすぎている。
▼憲法78条は、「裁判官は、裁判により、心身の故障のため職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行うことができない」と規定する。平たく言えば、裁判官をクビにしたり懲罰を加えるには、国民が弾劾するか上級裁判所が裁判官を裁くしかない、ということである。「国民が弾劾する」とは、国会に設置された弾劾裁判所(憲法64条)で裁くこと、「上級裁判所が裁判官を裁く」とは、裁判官分限法の規定で最終的には最高裁が判示することである。
▼なぜ裁判官の身分がここまで守られるのかといえば、民主主義社会においては「司法権の独立」が不可欠だからである。裁判官の職務は、良心に従い、証拠に基づいた事実認定を独立して行うことであり、憲法と法律にのみ忠実に拘束されることが求められる。しかし実態を見れば、ほとんどの裁判官は先輩判事の意向ばかりに配慮し、自らの出世のため最高裁人事局ばかりを意識したサラリーマン判事である。上ばかり見ているので、これをヒラメ裁判官というが、これでは正義の発見などができようはずがない。
▼「刑務所に入った人と友達なのは考えられない」といわれた被告の弁護人は、東京高裁に懲戒処分を求めるよう地裁に請求したそうである。私も山本譲司さんと友達だが、それは考えられないほどおかしいのか。この裁判官、「バカも休み休み言え」と言いたい。5月から始まる裁判員制度のもとでは、私たちはこのような質の低い裁判官と合議することになる。裁判員法の不備は数多いが、もし裁判員に当たったら、こうした浅薄で不見識な官僚裁判官には振りまわされずに、えん罪の可能性がある被告人を一人でも多く救おうではないか。

NO.480 09年1月号
国民の「知る権利」をないがしろにする「政治テロ」という喧伝

▼元厚生次官宅が相次いで襲撃さる事件が起きた。新聞には「連続テロか」という大見出しが踊り、テレビ各社は「卑劣なテロ行為だ」と、危機感を煽った。政治家も「こういうテロ行為を許さない」(河村官房長官)とか「政治的な思惑でのテロ行為であれば、社会に対する不満・批判は言論でやるべきだ」(共産党穀田国対委員長)などと、「テロ」を前提とした発言ばかりが目についた。イデオロギー過剰の極右元官僚佐々淳行氏は「テロへの危機感常に必要」(「朝日新聞」11月20日)と挑発、驚くことに冤罪問題など熱心に追究している大谷昭宏氏までが、「年金制度をめぐる連続テロの可能性が強い」(「朝日新聞」11月19日)というコメントをしている。立ち位置や思想を越えて、すべての人々が「テロ」という言葉を用いて危機意識を扇動したことに、背筋が寒くなる怖さを覚えた。

▼当初の報道は、年金行政に何らかの恨みをもった犯行説であった。その後容疑者が逮捕され、「動機は少年期に飼い犬が殺処分されたことへの恨み」と供述した瞬間、「テロ」という文字がメディアから消えた。動機が「年金」にしろ「保健所行政」にしろ、厚生労働省が所管する施策に対する不満であることには変わりはない。それなのに、なぜ前者なら「テロ」と表現でき、後者ならテロでなくなるのか、まったく理解に苦しむ。そもそも「テロ」という言葉を安易に使った政治家や「識者」の方々に、その理由を聞いてみたいものである。
▼テロリズムとは、「政府、革命団体などによって、一定の政治目的のために恐怖手段に訴えて組織的に遂行される暴力行為」(大学教育社「現代政治学辞典」)である。どうみても、一人の人間が二件の家に押し入り殺傷行為を行ったことが、テロリズムの定義に当てはまるとは思えない。単に「連続殺傷事件」と表現すればすむものを、警察発表に踊らされ、あえて「テロ」と書いたメディアの意識はどこにあるのだろう。また、垂れ流された報道に違和感さえもたなかった政治家や「識者」の見識は、あまりに稚拙だ。新聞が売れ、視聴率がとれ、世間が騒がしくなればよいのだろうか。
▼「テロ」という言葉は極めて政治的な重みがあり、軽々に使われるべき概念ではないと思う。新右翼団体・一水会の木村代表が機関紙「レコンキスタ」で指摘されているように、「政治テロ」という喧伝は警察官僚あがりの反動管理主義者・漆間官房副長官の謀略と見てよい。彼のサル知恵に踊らされ、挙句の果てに役人の職員録が図書館やホームページ上から消されてしまった。まさに火事場泥棒である。権力は今回の事件を奇貨として、国民の「知る権利」をないがしろにしようと謀っている。騙されてはいけない。公務員を選定し、また罷免をすることは、国民固有の権利であるのだ。???

NO.479 2008年12月号
「戦争は望まない人まで巻き込まれる」

▼秋葉原で起きた無差別殺人事件をきっかけに、ダガーナイフの所持を禁止する銃刀法改正案が成立することとなった。ワーキングプア対策や心の病に苦しむ若者のケアーはまったく不十分なのに、こんな表面的な法改正で何が前進するのだろう。都市で生活する若者は警察官の不当な職質に迷惑千万であるのに、こんな法律ができたらまた警察に都合のいい口実を与えるだけである。無意味なパターナリズム法案に、民主党まで賛成している。実生活をよく考えてほしいものだ。

▼空自トップの田母神という人の言動は、個人が刃物を持つのとは桁違いの憂慮すべき事件である。民間人が美術品のナイフを所持することを禁止する前に、高度殺人兵器を操る責任者の危険行動を厳しく規制すべきである。処分もろくにせずに6000万の土産つき退職など、言語道断だ。歴史から何も学ぼうとしない愚か者は、「村山談話」を「言論弾圧の道具だ」と述べた。言論弾圧の悲惨も人権侵害の実態も知らない人間に、弾圧を語る資格はない。過去の過ちを反省もせず、他人の痛みをわかろうともしない、実に身勝手で幼稚な発想だ。アバグループに提出した「懸賞論文」を拝見したが、私が卒業した三流大学の年度末試験でさえ、こんな答案は恥ずかしくて書けないレベルの作文である。
▼また、「政府見解に一言も反論できないようでは、北朝鮮と同じ」だと述べ、「言論の自由」とまで宣ふた。「言論の自由」という精神的自由権は、「国家からの自由」であり、国家が言論を抑圧してはならないという国家自身を縛る憲法の要請である。全体の奉仕者である職責を有する彼が、すぐれて職務上の命を受けた事項に関して「国家からの自由」を主張できるはずがない。不勉強もここまでくると開いた口が塞がらない。
▼憲法66条2項には、「内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない」という「文民統制(シビリアンコントロール)」の概念が書かれている。「軍隊」がないわが国にあえてこの規定があるのは、憲法制定時における極東委員会の強い要求と明治憲法下での軍部暴走の反省からである。名古屋高裁イラク違憲判決に際し、田母神は「そんなの関係ない」と言ったが、この暴言を含めて一連の発言は明らかに憲法違反である。先般「讀賣新聞」に防衛上の情報(南シナ海での中国潜水艦事故情報)を提供したとして北住一等空佐が懲戒免職処分を受けたが、どちらの行為が法的・社会的に罪深いか、誰の眼にも明らかだ。
▼「窮状」(9条)をアルバムにした沢田研二さんは、「攻められたら守るだろう」と言ったバンド仲間に対して、「一対一の喧嘩と戦争は違う。戦争は望まない人まで巻き込まれる」と述べたそうである。田母神的危険思想は、罪なき人を戦禍に誘う。田母神発言を擁護している自民党国防部会の連中は、ジュリーの爪の垢でも煎じて飲んでほしい。

NO.478 08年11月号
問われるべきは「日本国民」

▼2006年10月、覚せい剤所持の現行犯で逮捕起訴されたスイス国籍のクラウディア・ツァーベルさんは、裁判で無罪となった後も検察が控訴したため再拘置された。7ヵ月にもおよぶ拘束で自殺にまで追い込まれた心境を綴った手記で、「私が外国人だという理由だけで、無罪判決にもかかわらず自由を剥奪された」と述べている。観光で日本に入国する前、旅行先で知り合った人から渡されたスーツケースの中に覚せい剤が隠されていたのだが、彼女はそのことを知らなかった。裁判所も「故意と認めるには合理的な疑いがある」と判示したのに、検察は強制送還を防ぐため拘置したのである。
▼身に覚えのないことで身体の自由を奪われたのに、行政からの補償はなく、また日本国民も自国政府に何ら怒りを表明しない。いま中国で食品被害が起こっているが、先日「日本人に被害者が出たが入院には至らなくてよかった」という報道を見た。外国で事故やテロが起きると、必ず「巻き込まれた日本人はいない模様」とアナウンサーは言う。しかし、被害者がスイス人であれ中国人であれ、日本人とどこが違うのであろうか。「日本人が無事ならいいのか」、「外国人はどんな酷い目にあってもいいのか」、私はこの国の自己中心的で見識のない島国根性に、深い悲しみを覚える。
▼10月11日、「三浦和義さんがロスで自殺」という衝撃の一報が入った。三浦さんの死を単なる自殺と受け止めるのは躊躇するし不可解である。三浦さんの弁護人は他殺だと主張している。スイス人女性は日本から酷い仕打ちをされたが、三浦さんも日本政府と日本社会に殺されたのだと思う。最高裁で無罪が確定したにもかかわらず、身体の拘束という最大の人権侵害に対して、政府は何ら手を差し伸べなかった。ロス郡地検広報官が「DNA鑑定や新証言などの新たな証拠はなかった」と証言した後でさえ、政府も世論も抗議の声をあげない。こんなにバカにされてもポチでいたいのか。
▼「それでも三浦さんはあやしい」と言う人に言いたい。裁判とは、無罪推定のもとで法的手続きに則り証拠にもとづいて事実認定することであり、その結果有罪が退けられたら無罪なのである。したがって、ロス疑惑の犯人が三浦さんかどうかは当事者のみ知ることであり、無意味な議論なのだ。以前、三浦さんと在監者の特別権力関係(公法上の原因により成立する公権力と特定の国民との従属関係)について論じあったことがある。私は法の支配と基本的人権の観点から旧監獄法下の刑務所を批判したが、三浦さんは塀の中の実態を語り看守の立場を尊重していた。そこまで律儀な三浦さんを死に追いやった責任の多くは、他殺の可能性はあるにしても、私たち日本国民にあるのだと思う。

NO.477 08年10月号
リベラルな空気を、いま取り戻そう

▼この雑誌が世に出るころは、麻生太郎氏が自民党総裁選挙で勝利し、形だけの臨時国会を開いて総理に就任しているであろう。しかし、一歩立ち止まって考えてほしい。総裁選挙の馬鹿騒ぎは何だったのか。麻生氏は、自民党幹事長として9月12日の国会開会を目指した中心人物ではなかったか。その本人が、国民に何の謝罪もせず、総選挙の「事前運動」にうつつをぬかすとは、無責任そのものである。
▼9月15日の東京新聞「本音のコラム」で、山口二郎氏は麻生氏の総理の資質を問うていた。魚住昭氏の著書『野中広務 差別と権力』(講談社)のなかで、麻生氏が野中広務氏に対して「被差別部落出身者を総理にするわけにはいかない」と自民党河野派の会合で発言したこと、そして引退直前の自民党総務会で野中氏自身が麻生氏の面前でそのことを暴露し糾弾したことを指して、「麻生という政治家を基本的に信用していない」と厳しく批判している。さらに、「一国の最高指導者になろうとする政治家について、その言動をチェックし的確性を吟味することは、メディアの使命である」と、苦言を呈している。氏の批判は、至極当然である。
▼最低の差別主義者である政治家を、「まんがオタク」、「べらんめえ調」、「明るい性格」などと当たり障りのない言葉で形容しているメディアは、自らの責任放棄でしかない。「失言癖」という指摘もあるが、野中氏への侮辱は個人に対する失言のレベルではなく、「部落差別」という日本が世界に最も恥じる史実に対する無自覚である。もとより麻生氏は、自民党政調会長時代に東大五月祭で「当時朝鮮の人たちが日本人のパスポートをもらうと名前に『金』と書いてあった。それを見た満州の人たちが『朝鮮人』だといって仕事がしにくかった。そこで朝鮮の人たちが『名字』をくれといったのがはじまりだ」と発言した。創氏改名は朝鮮人が望んだものと認識している歴史修正主義者を日本の「顔」にすることは、国民の恥を世界にさらすに等しい。総選挙で「麻生総理」を選択することは、「私たちはこの程度の国民です」と公言するようなものだと思う。
▼「オウム事件」以降、日本社会は極端な警察国家に変貌した。そして、「9,11」事件によるアメリカからの軍事圧力と小泉・安倍反動政権による諸悪法の成立により、日本は民主国家から脱落するぎりぎりのラインまで追い込まれた。70年代80年代に存在したリベラルな空気を、いま取り戻さないと手遅れになると思う。民主党は、警察庁が最も嫌う「取調べ可視化法案」を参議院で可決させたが、この一点だけでも、野党を中心とした政権をつくる意味があると思う。

NO.476 08年9月号
もう一度「戦争と平和」について考えてみたい

▼8月15日、63回目の敗戦の日にあたり、靖国神社には15万2000人が参拝したという。この中の一人、岐阜県の遺族会会長が、「平和な暮らしができるのも、若くして命をささげた人がいたからこそ」と言っている新聞記事を読んだ。一見違和感なく読み流してしまう人も多いと思うが、私は「若くして散った英霊を参拝することの何が悪い」と、アジアの人々の悲痛な感情を忖度しなかった小泉元首相を即座に思い出した。本当に「“若くして命をささげた人”の無念さを受け止めて参拝しているのか」と、参拝者たちに問いたい。
▼作家の星野智幸さんは、「自殺という戦争」というコラムで、「死者を追悼するとは、その苦しみを理解しようと努めること」と述べている。最期に「おかあさーん!」と叫んで散っていった特攻隊の若者は、「命をささげた」のではなく「命を奪われた」のであり、自殺することを国家から強要されたのである。その切ない思いの一片でも理解しようとするならば、「命をささげた人がいたから平和がある」などと寝惚けたことを言えるはずはなく、「二度と過ちは繰り返しません。許してください」という言葉が出てこよう。今年も多くの国会議員が靖国を参拝したが、彼らは皆「平和」を口にしても、「昭和天皇の戦争責任」や「9条2項の擁護」は、聞いたことがない。
▼また星野さんは、「本当に平和なら、どうして年間3万人もの一般人が自殺していくのだろうか」と述べている。私は自殺も中絶も死刑にも反対であるが、今「平和な暮らしができている」と思っている人は、死を選ぶしかないまで追い込まれた人たちのことすらも想像できない、浅薄な人間である。そして、アメリカに加担して罪のないイラクやアフガンの子どもたちの手足や命を奪っている責任が日本にあることも認識できない、無知で無自覚な人間だと思う。
▼8月15日に際し、「いまは平和だ」という愚かな認識は捨てるべきである。ロシアの作家ガルシンは、「この世の中に人間ほど凶悪な動物はいない。狼は共食いしないが、人間は人間を生きながらにして丸呑みする」と述べている。アメリカの哲学者ウイリアム・ジェームスは、「人間は最も恐ろしい猛獣であり、しかも同じ種族と組織的に餌食する唯一の猛獣である」と述べている。人間の本質を見つめなおし、もう一度「戦争と平和」について考えてみたい。私は性悪説に立ち、「人間を育めるのは教育でしかない」と考える。ゆえに、絶対的な平和主義に行き着くのである。

NO.475 08年8月号
外国人ジャーナリストが自由に活動できる国に

▼サミットを機に、日本の民主主義は急激に後退した。東京と札幌を中心に限度を超えた異常警備と一般市民に対する不当な職務質問、「反G8」集会・デモに対する強権的な弾圧、外国人ジャーナリストや学術関係者に対する入国規制・長時間の入管尋問・強制退去等、「先進国」とは思えない、国際的にも恥ずべき人権感覚である。鯨肉の横領を告発したグリーンピースメンバーの不当逮捕や大阪釜が崎の地域合同労組委員長の逮捕・勾留も、サミット財務相会議や洞爺湖サミットを意識しての不当弾圧であることは間違えない。
▼とりわけグリーンピースへの弾圧は、法的にも納得できない。刑法235条の窃盗罪が成立するためには、他人の財物を摂取する故意のほかに不法領得の意思を要する。判例は、「経済的用法に従い利用または処分する意思」(最判昭26、7、13刑集5巻8号1437頁)と述べており、公務員の不正を告発する目的の行為は経済的用法ではなく、犯罪の構成要件に該当しない。しかも鯨肉を業務上横領した調査捕鯨船員は、何のお咎めもなし。まさに国策温情である。
▼東京や札幌では、警官がデモ隊を挑発して暴力を振るう光景が、数多く目撃された。また街を歩く若者に、のべつ幕なし「カバンの中を見せろ」とイチャモンをつける警官の姿は、戦前のオイコラ警官と同じである。「テロ対策」を口実にした当局の人権弾圧は、何が目的で、どういう社会を描いているのか考える必要がある。
▼小泉・安倍・福田と続く右派・反動政権のなかで、公安警察は「わが世の春」を謳歌し、警察庁内の予算と人員を強化する絶好のチャンスを企んでいる。しかし、ただそれだけではない。職務質問一つみても、若者は狙われるが年配者はターゲットにされない。ネクタイをしていると職質されないが、GパンTシャツ姿だとすぐにやられる。彼らは、権力に従順な穏やか人を好み、体制に異議を唱えない「澄みきった社会」を描いているのだ。
▼道端にタバコの吸殻一つ落ちていないシンガポールのような潔癖社会を、心地よく思えるだろうか? デモもストもできない中国や北朝鮮のような社会が、健全だといえるだろうか? 報道によると、日本の「報道の自由度」は世界第37位、日本人の「幸福感」は世界第43位だという。多くの人は、「腹にイチモツ背に荷物」を背負い、肩を窄めて暮している。権力にものを言わない私たち自身が、こういう閉塞社会をつくってしまったと思う。せめて外国人ジャーナリストが自由に活動できる国にしなくては、恥ずかしくて海外旅行にも行かれない。

NO.474 08年7月号
社会に「優しさ」を取り戻そう!

▼日曜日の歩行者天国で無差別殺傷事件が起き、7名の尊い命が奪われた。ワイドショーは凄惨な事件を連日大々的に取り上げ、関係者のインタビューや犯罪心理学者のコメントを流し続けた。ショッキングなこの事件報道を見ながら、日本社会が抱える病の深さを考えさせられた。
▼一つは、若者の事件が起きるたびに出される、友人・知人や教師のコメント。「学校の成績は優秀であった」、「県内屈指の進学校を出た」といった評価である。罪を犯したことと学校での成績との、どこに関連性があるのだろうか。“学業が優秀な者は悪いことなどしない”というメディアの偏見に、誰も抗議しない。おそらく大多数の日本人は、無自覚のなかにその類の「偏差値差別」をもっているのであろう。はっきり言いたい、「もう、そういう差別・偏見はやめよう」と。私の学校時代の成績は、「12、12(いっちに、いっちに)」と隊列を組んで行進するかの有様だったが、いまだに人を殺す事件は起こしてはいない。
▼二つは、秋葉原の商店街組合が、翌週以降の歩行者天国を中止にしたことである。航空機の墜落事故が起きた翌日は搭乗キャンセルが増える心理状態と同じで、気持ちは分からないではない。しかし、車を排除すれば犯罪は起こらないと考えているのだとしたら、あまりにも短絡的な発想であろう。
▼三つは、インターネットのサイトに殺人予告をほのめかす書き込みがあったら、警察に通報するようにウェブ管理者に呼びかけたことである。冗談やお遊びも含めて無数にあるその種の書き込みを、すべて警察が受けていたらパンクするであろう。しかも、そんな検閲がまかり通ったら、戦前の暗黒社会に逆流だ。言論とは、よい言論も悪い言論も醜い言論も含めて、言論なのである。明白かつ現在の危険が証明されない限り、むやみに言論を統制してはならない。
▼いま必要なことは、犯罪の抑止力低下を社会全体で真剣に考える議論の場づくりである。安易に、警察や自警団や防犯カメラの設置に頼っても、安全な社会は実現できない。容疑者自身の悩みや怯えに、ヒントはあると思う。「彼女さえいたなら」という愛情に飢えた気持ち、友達がいないことへの悩み、いつクビ切りにあうか分からない労働環境、彼の犯罪は許せないが辛さは理解できる。社会に「優しさ」を取り戻すしか道はない。人の心を育む地道な教育を創造し、小泉─竹中の謀議によって造られた貧困を根絶させる、そのための政策転換しかないと思うのだが。

NO.473 08年6月号
「国を憂うることと国を愛することは違う」

▼北京オリンピックに向けた聖火リレーが世界各国で展開され、長野市の沿道も中国国旗を掲げる留学生たちで埋め尽くされた。チベット系の人や民主化を支援する者もいたが、圧倒的多数は漢民族である。母国でのオリンピック成功を願い、国旗を手にして応援する気持ちはある程度理解するが、チベットの自治や民主化要求を粉砕し、その声を凌駕しようとする行動は、軽蔑に値する。
▼歴代の首相が靖国神社を訪問したとき、中国の人たちはこれに強く反発した。「日本の歴史認識は間違っている」、「侵略戦争への反省がない」という声は、まったく異論がない。一人の日本人として、首相の愚かな行動を恥ずかしく思うし、相手の立場を思いやれない日本政府に対して強い怒りを覚えた。しかし、いま中国人たちは、日本政府の不勉強と同じレベルで、まったく歴史を学んでいない。共産党一党独裁政権のなかで、正確な歴史教育が行われてこなかったことは事実としてわかるが、少なくとも日本の大学で学んでいる留学生が、チベット侵略の歴史を知らないとは言わせない。日本の市民派の知識層に、欧米の一部保守勢力が扇動しているチベット民主化闘争に与すべきではないという論調があるが、自治や人権の問題をイデオロギーで判断してはならない。一部に事実があるとしても、中国政府がチベット人民を弾圧していることは明らかあり、批判を控える理由にはならない。
▼先般、四川省で起きた大地震でも、中国政府は海外からの人的援助を拒否した。発生から72時間を過ぎようとした頃、少数の警察官と消防士の受け入れを決めても焼け石に水である。中国のテレビ局は、人民解放軍が瓦礫の山から人々を救出する映像と、温家宝首相が被災難民を激励する姿を繰り返し放映していた。生死の狭間で救出活動を続ける最中に、首相が視察する必要がどこにあるのだ。邪魔にしかならない偽善行為を、何の疑問をもたずに見ているとすれば、あいた口がふさがらない。
▼中国の人たちに言いたい。「これでは日本政府を批判できなくなってしまうよ」と。鈴木邦男さんのお言葉を借りるなら、「国を憂うることと国を愛することは違う」のだ。人の命よりも面子や体制を考える中国政府は、「憂うる対象」ではあっても「愛する対象」ではないことに気付いてほしい。???????

NO.472 08年5月号
権力の横暴に歯止めを

▼2006年3月、高知県内の国道でスクールバスに白バイが衝突して警官が死亡する事故が発生した。昨年10月、高松地裁は被告を業務上過失致死・禁固1年4ヶ月と判示し、控訴審も被告の主張を退けた。この事故の検証は、先日のサンディープロジェクト(テレビ朝日系列)でもなされ、久しぶりに評価できる報道内容であった。
▼警察は、時速10キロで走行していたバスに時速60キロの白バイが追突して引きずられたとして、1メートルのブレーキ痕の実況見分調書を提出した。一方、普段から猛スピードで白バイの追跡訓練を見ている付近の住民は、「停車中のバスに100キロ以上で白バイが突っ込んだ」と証言している。また実験の結果、時速10キロでは1メートルのブレーキ痕はつかないことも判明した。しかし裁判所は、ありえないブレーキ痕を証拠採用し、さらに「バスは止まっていた」という証言は「第三者だからといって信用できるわけではない」として退けた。(林眞須美さんの裁判では、裁判所は「身内の証言は信憑性がない」というのだが…。)証拠を捏造してまで守ろうとする警察の面子には驚くが、裁判所もここまで平気で嘘をつくようになったとは嘆かわしい。
▼立川テント村のビラくばり判決では、「自衛隊官舎に立ち入ることは、管理権を侵害し私的生活の平穏を害した」、「表現の自由は無制限ではなく、他人の権利を害する手段は許されない」として、最高裁は上告を棄却した。しかし公判過程で、住民からの被害届けは警察が用意したものであることが明らかになっているではないか。「平穏な生活が侵害された」など片腹痛いし、判決の内実は「戦前の家父長の住居を侵害した住居権説」に依拠した前近代的なものである。ここまでくると、裁判官の知的レベルを疑う。
▼両方の事件とも、警察・検察と裁判所が一体となり、人身や言論の自由を剥奪したものだが、そろそろ権力の横暴に歯止めを掛けていかないと、取り返しのつかないことになってしまう。裁判所までもが市民の人権を弾圧する機関になってしまったら、もはや民主国家ではない。一刻も早く、権力のよどみを除去しなくてはならない。

NO.471 08年4月号
虚勢を張った「偽りの強さ」を支持する空気

▼2月26日に東京都北区の路上で、3人の高校生の「大声がうるさい」という苦情が滝野川署に寄せられ、警察官が駆けつけた。警官は少年たちを注意し、一旦はその場を立ち去ったが、約10メートル先で再び路上に座りこんだ。警官は、名前を尋ねても無視したため銃を抜いて立ち退かせた。その直後、少年たちは「銃を向けられた」と署に訴え、事件は発覚した。
▼滝野川署は、警官を特別公務員暴行陵虐容疑と銃刀法違反(所持)で書類送検し、停職一ヵ月の懲戒処分にした。事件発生直後より、処分の軽減を求める嘆願書が地元住民から提出され、また「警官をバカにした少年の行動は許せない」、「誰が少年を注意するのか」など、警官を擁護する電話やメールが数多く届いているという。ネット上の発言の多くも、警察署の対応を非難するものである。
▼昼夜を問わず大騒ぎをする少年や明け方まで暴走行為を繰り返す若者がいることは事実であるし、安眠を妨害されて困っている住民が相当数いることも想像に固くない。しかし、「悪餓鬼がうるさいからピストルで追っ払ってもかまわない」という世相は、いかがなものかと思う。少年たちに注意しても聞かないのであれば、東京都迷惑防止条例や暴騒音条例、あるいは軽犯罪法や時には刑法の傷害罪も視野に入れ、正当な法律的根拠をもった方法で対処すればよい。住民の中には、「少年に注意したとき反抗的な態度を取られたので、警官に共鳴できる」という意見があったが、銃口を向けて云う事を聞かせることに正当性を見出すならば、野蛮な銃社会を肯定することになる。さらに言うならば、「自分は銃しか頼れない弱い人間ですよ」と、自ら証明したことにもなる。裏金を告発した仙波巡査部長のような強さと優しさを備えた警察官であれば、拳銃も警棒も使わずに少年たちに言い聞かせたことであろう。
▼虚勢を張った「偽りの強さ」を支持する空気を、非常に怖く感じる。軽軽に銃をかざしてしまった警察官に反省を促し、「餓鬼どもからも好かれるお巡りさんになろうよ」と諭すのが、大人の社会ではないだろうか。政界でも、石原都知事や橋下府知事のような唯我独尊の「強さ」は、見ていて気分が悪くなるし、お気の毒な性格だと哀れんでしまう。
▼最後に、親しくさせてもらっている三浦和義さんの件について一言。「日本で無罪が確定したからといって、アメリカへの捜査協力を拒否する理由にはならない」という鳩山法相や町村官房長官の発言は、法治国家を崩壊させてしまう。これらの発言も、強い者にこびる「偽りの強さ」なのであろうか。

NO.470 08年3月号
規則を守ろうとしない人たちへ

▼規則とは、守るためにあるのだろうか、破るためにあるのだろうか。昨年10月、神奈川県個人情報保護審査会は、県教育委員会が「君が代」不起立教員の氏名を収集することは、個人情報保護条例が禁止する「思想信条に関する個人情報」にあたると答申し、「情報収集は不適当」と判断した。しかし県教委は、2月4日に「今後も氏名収集を継続する」との方針を明らかにした。審議会は「不起立は思想信条の表れ」であると判断し、委員の多くも憲法19条に反することを指摘しているが、県教委は「必要な服務情報の収集にすぎない」と、平然と答申を無視した。政治におもねった行政裁量が許されるのならば、審議会など無用の長物と化してしまう。
▼2月2日から開催された日教組の「教育研究全国集会」は、全体集会の会場に予定していたグランドプリンスホテル新高輪が、「右翼の抗議行動によって周辺住民に迷惑をかける」という理由で、会場使用契約を一方的に破棄した。しかも、その後の仮処分申請において日教組への会場使用を命令した裁判所の決定をも無視したのである。プリンスホテルは、「法令を守らないことになるが、企業としての判断だ」と開き直っているが、裁判所の命令に従わないことがまかり通るならば、ルールなき社会になってしまう。人に金を借りても返す必要はない、スピード違反でサイレンを鳴らされても止まる必要もない、「万人の万人に対する闘争」であり、ライオンと羊が同じ檻の中で暮す社会である。
▼2月11日の建国記念日に街を歩いていたら、大きな日の丸旗を積載した右翼の大型外宣車が10台以上連なり、80デシベルをゆうに超える音量で「紀元節だ!」とわめきながら走行していた。明らかに道路交通法違反であり東京都騒音防止条例違反であるが、交番の警官は見てみぬふりである。もはやこの国は、法を守る必要はないのだろうか。
▼夜回り先生の水谷修氏は、自らのエッセイで「社会に規則が必要なのは、弱いものを守るため」といっている。「皆が自由勝手をしてしまえば、一部の権力や暴力をもったものが支配してしまう。互いに傷つけることなく共に生きるために規則をつくった」と、子どもたちに説いている。いま国民は、「消えた年金」に、「無駄な道路建設」に、「中国餃子」に怒っている。生活や健康はたしかに重要であるが、「規則を守ろうとしない人たち」へ、怒りの矛先は向いていない。直接腹は痛まない、銭金に関係ないから怒らないのだろうか。そうだとしたら、もはやこの国に未来はない。

08年2月号
処罰欲に駆られた報道の脱却を!

▼2006年8月、福岡市の元職員が飲酒運転により幼児3人を死亡させた事故で、福岡地裁は危険運転致死罪の成立を否定し、業務上過失致死傷と道路交通法(酒気帯び運転、ひき逃げ)の併合罪で懲役7年6ヶ月を言い渡した。この判決の日から、メディアはいっせいに「被害者遺族が求めた量刑とかけ離れている」と、被告と裁判官へのバッシングをはじめた。テレビのワイドショーでは、例によって被害者感情を徹底的に煽りながら、一片の法律知識ももたない司会者が、「正義の味方」面で被告に鞭打ち裁判官批判を繰り返し、おまけに都合のいい弁護士をゲストに迎えて、一方的なコメントを繰り返させていた。新聞各紙には温度差はあるもの、基本的には「被害者感情を受けて新設された同罪の存在意義が問われる」といった、厳罰化の主張であ
る。
▼刑法208条の2の「危険運転致死傷罪」は、・アルコールまたは薬物により正常な運転が困難な状態での走行、・制御困難な高速度での走行、・通行を妨害する目的での危険な高速運転、・赤信号をことさらに無視した危険な高速運転、を故意におこなった場合を規定している。この罪を刑法に追加しようとした段階で、すでに国会では適用基準の曖昧さは弁護士出身の議員の多くから指摘されていた。にもかかわらず、このような不完全な条文を認めたのは、すべての議員が「飲酒運転厳罰化」という世論の波に抗すことができなかったからである。一人でも、立法の瑕疵を指摘し、構成要件を明確化させる必要性を貫ける議員がいたならば、今のような混乱は回避
できたと思う。
▼まずは、法律の不備を熟考すべきである。信号無視には故意も過失もあるだろうが、飲酒に過失があろうはずはない。正常な運転が困難ゆえに罪なのではなく、飲酒運転自体が罪でなくてはおかしいのだ。「ヘベレケに酔っ払うのはダメだが一杯引っ掛ける程度は許される」といった類の法律こそ、問題である。一方この罪刑は、「危険運転」行為の重大性に鑑みて定められたのであり、結果の悲惨さや社会的な法益の保護を理念として立法されたのではないことも、冷静に抑えておく必要がある。
▼今回の事件の場合、危険運転致死傷罪を正確に解釈すれば被告を処罰することはできないと判断した裁判所が、検察に訴因変更まで命令したきわめて異例なケースである。なによりも世論を背景として、「法律」と「社会的な正義」とをぎりぎりのところですり合わせた、裁判官としての見識であるといえよう。不勉強なテレビの司会者が、感情だけで批判できるような薄っぺらな判決ではない。
▼メディアの態度は、明らかに間違いである。あなたたちは刑事でもアンパイヤーでもなく、権力のウォッチドッグであり在野のオピニオンリーダーたるべきだ。処罰欲に駆られた報道からは、決して公正で寛容な社会は生まれない。

08年1月号
権力の不法行為に、断を下す機関の創設を

▼権力分立は、なぜ必要なのだろうか。辞典によれば、「国家権力ないし統治機構が、一つの機関や一個人に集中すると自由の見地から不都合や弊害が生じるので、できるだけ権力を分立・分散させ、相互の抑制・均衡をはかることによって権力の絶対化を防止ないし回避しようという思想や機構」とあるが、私たちも一般的にそう理解している。しかし今の日本では、先人が予想もしていなかった事態が起きている。戦後、事実上の保守一党支配が続くなかで、立法権が十分な役割を果たせず、行政権優位の社会構造ができたまでは予測していたかもしれない。しかし、三権のなかの二権、つまり行政権と司法権が完全に一体化し、癒着した状態になろうことまでは想定外だったであろう。

▼検察が起訴をした刑事事件の有罪率は99%である。つまり行政が犯罪を認定すれば、司法はほぼ100%追認している。卑近な例だが、先日、古紙回収業者がごみ集積場から古新聞を持ち去ったことがリサイクル条例違反だとして20万円の罰金を言い渡された高裁判決があった。これには驚いた。私たちは、ごみを外に出して回収を委託した時点で、無意識ではあるが所有権を放棄しているはずだ。また、10円にも満たないであろう古新聞一束を失敬したことに、可罰的違法性があるだろうか。民間人は、こんな些細なことでも「犯罪」と認定されるのである。
▼一方、権力の不当・違法行為はどうだろうか。佐賀県警の警察官が、知的障害をもつ青年に馬乗りになり暴行を加え死亡させた事件が起きたが、暴力警官の行為は内部でもみ消されている。さいたま地検熊谷支部の検察官が、拳銃押収事件で暴力団組長とグルになり取引をした行為も「お咎めなし」。しかもこの検事は現在「海外留学中」である。徳島刑務所では、医務官が受刑者に性的虐待をした事件が31件も報告されているのに、司法当局と法務大臣が結託して隠蔽している。しかも、これらは実名報道さえされておらず、何の社会的制裁も受けていない。
▼行政を監視するシステムとして、オンブズマン制度がある。そもそも議会の職員の行政監察制度としてスウェーデンで創始されたものだが、普及するにつれて行政救済・苦情処理的な機能が主流になってきた。今では、より専門的なオンブズパーソンも存在するが、行政にものをいうだけの制度では、腐敗しきった今の日本社会では無意味のような気がする。民間人は、反戦ビラを撒いただけで逮捕されるが、侵略戦争に加担をした行政は罪に問われない。マンションへの政党ビラの投函が有罪であるのに、警察・検察・裁判所が極悪非道な行為をしても、何の罪にも問われないことが殆んどだ。三権分立にプラスして、権力の不法行為に対し明確
に断を下せる、何らかの機関が必要ではないだろうか。

2007年12月号
偽ジャーナリストの許されない行為

▼福田首相と小沢民主党代表の党首会談、そこから飛び出た大連立構想、そして小沢党首の辞任、その二日後の辞意撤回と、壊し屋“小沢の乱”によって政局は大混乱した。新聞もワイドショーも、「何が小沢を大連立に走らせたのか」という連立話の伏線について盛んに報じた。しかし、「メディアの政治介入」については、なぜか自重ぎみのようだ。
▼今回の大連立騒動は、渡辺恒夫読売新聞グループ会長兼主筆が仕掛け、中曽根康弘元首相がハンカチを振り、森喜朗元首相がパシリでお膳立てをし、小沢一郎氏が一人芝居を演じてしまったといえるだろう。小沢は悪魔の囁きを真に受けはめられたのであり、混乱の責任はあるが、今回に限っては「御人好し」の側面もある。ところがナベツネの動きは単なる政治道楽であり、個人の趣味に呆けて混乱させた責任は大きい。政治ごっこをしたいのならば、選挙の洗礼を受けてからにしてほしい。「大連立をしかけたのですか」という記者の質問に、「新聞記者が、君たちにそんなことをしゃべるもんじゃないんだよ。職業が違うよ。それは政治家に聞け」と偉そうに言ってのけた。「政治介入ではないか」という批判に対しては、「必要かつ妥当なことと考えている」という始末、まさに“盗人猛々し”と呆れ果てる。
▼8月16日の「読売」の社説で、自らが筆をとり「自・民大連立」を熱心に説いたところを見ると、この老妖怪はよほど「大連立」が好きなようだ。思い起こせば、「読売」は「朝日」と「日経」を巻き込んで、インターネット上でのニュースサイトの共同開設と販売の業務提携を画策した。「談合の前科」があったのだ。
▼社の主張が保守であれ右翼であれ言論市場の中では自由であるが、ジャーナリストを自称する者が、一千万人読者の背景を武器にして、改憲草案を出したり声高に連立を叫ぶ態度は、まともな感覚ではない。さらに、あろうことか自社のトップに胡麻摺りの提灯記事を書いている新聞は、ジャーナリズム精神とは最も遠い存在だ。社内の民主主義も確立されていない独裁企業では、権力監視などできようはずがない。
▼いま「薬害肝炎」が大きな社会問題になっているが、この事件の調査と取材に寝食を忘れて懸命の努力をしている「読売」の記者を、私は知っている。真摯な人材も抱えている「読売」だが、老妖怪に牛耳られた会社の体質には、開いた口が塞がらない。“CSで巨人が敗れて暇になったので政治に口でも出してみようか”という偽ジャーナリストの行為は、決して許されるものではない。

07年11月号
日本の「鎖国」政策と少子化問題

▼17年間日本に滞在し真摯に生活しているビルマ人の親子3人が、強制送還される危機にあるという新聞報道を、8月下旬に眼にした。「勉強して社会に役立つのがなぜいけない」「店を任せるほど信用していた」と述べる中学時代の恩師や勤務先の社長の言葉に、人権後進国・日本への怒りが込み上げてきた。それから一月も経たない9月下旬には、東京地裁で難民認定されたビルマ人に対して、東京高裁が一審判決を破棄する非常識な判決を、2件連続してくだした。取材中の長井健司さんを銃殺したビルマ軍事政権のもとへ帰れと判示する高裁第15民事部の反人権・鎖国体質には、あきれて言葉も出ない。
▼日本は毎年数千万ドルの難民支援を拠出しているにもかかわらず、受け入れは雀の涙である。1982年からの難民申請総数は3118人だが認定者は315人、全体の約9割が却下されている。平成に入ってからの10年間は毎年1名から3名程度であり、万単位で受け入れている欧米とは比較にならない。近年はやや認定数が上がったものの、昨年難民申請した外国人954人中、認定者は34人でしかない。「難関」といわれる大学の入試問題と同じで、落とすことに主眼をおいた選考姿勢は、行政にも司法にも共通する。
▼長野市のHPを見ると、「世界地図の中心にあるのは、“赤く塗られた日本”ではありません。……四方を海に囲まれ、“鎖国”を経験した日本人は外国人から見ると視野が狭く物の考え方が画一的になりがちといわれます。長野市にも多くの外国人が暮しています。一人ひとりが異なる個性や文化をもっている……そのことを理解し大切にしていくことが豊かな社会を築いていくことにつながる」旨、書かれている。まさにその通りであり、一日も早く“鎖国”を解かなくてはならないと思う。
▼憲法10条の「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」という規定は、具体的には出生・準正・帰化による国籍取得を定める国籍法にすべて丸投げしているが、この条項は制憲者の意思を超えて、国籍の壁を高くし国民と外国人を必要以上に区別する反人権的な作用として機能しているように思える。直ちに改憲が必要か否かは別として、いま立ち止まって考えてみたい。国際手配されているフジモリ容疑者をかくまった国家の不正義な行為は、「?統」がなすべき技だったのか。アフガンやイランなど多くの政治難民を強制送還してきた卑劣な行為は、「民族の?がつながっていない」からなのか。
▼日本は「少子高齢化」が社会問題になっているが、世界的には人口の爆発的増加が深刻である。政治難民を日本社会の一員としてしっかり受け入れ共生社会を築くならば、「少子化」問題など一発で片付くと思うのだが。

07年10月号
法律をめぐる争いに、「世間」という概念を持ち込んではならない

▼5月27日に放送されたテレビ番組の中で、橋下徹弁護士は「見ている人がいっせいに懲戒請求をかけたら、弁護士会としても処分を出さないわけにはいかない」と発言し、光市母子殺害事件で殺人罪に問われた元少年の弁護団に対し、視聴者に懲戒請求を呼びかけた。各地の弁護士会には、4000件を超える懲戒請求が起こされているという。これに対して弁護団側の4人の弁護士は、「業務を妨害された」として橋下氏に一人300万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こした。タレント家業に明け暮れる同氏が、公共の電波を個人的に利用して弁護団を攻撃することなど言語道断であるが、同時にこうした卑劣な扇動に乗って行動してしまう人が多いことも悲しいかぎりである。
▼橋下氏は自らのブログのなかで、「弁護士法上の懲戒事由である『弁護士会の信用を害する行為・品位を失うべき非行』の基準は、世間の基準だ」と述べている。彼は、どうやら“道徳と常識と法律は必ずしも一致するものではない”ことを知らないようである。「汝の敵を愛せよ」、「右の頬を打たれたときは、左の頬を差し出せ」、といった聖書の道徳規範は、侮辱罪や暴行罪といった法律とは一致しない。「人は右、車は左」、「20歳未満は禁酒禁煙」は法律であり常識ではない。おそらく、法廷で弁護団が「強姦は死者を復活させる儀式」という非常識な被告人の供述を伝えたことを指して「世間の基準」と言っているのであろうが、法律をめぐる争いに「世間」という概念を持ち込んだならば、中世まで時計の針を戻すことになる。法律を表すフランス語の droit は「正義」と同じ語源であり、法は世間の道徳と同一視されていたのである。
▼また同ブログで、「弁護人はたとえ全国民を敵に回しても被告人の利益をはかることが職責であるというカビの生えた古い題目を唱えるだけ」と弁護団を批判しているが、そうであろうか。「犯罪の訴追を受けたものは、法律に従って有罪の立証があるまでは無罪と推定される権利を有する」という無罪推定の概念は、世界人権宣言11条に規定される近代刑事訴訟法の鉄則的要請である。橋下氏の考えはあまりにも薄っぺらで、法律に対する理解が深くない。
▼橋下氏は、「刑事弁護人は世間に迎合して刑事裁判をしてはならない」と記者会見で述べているが、それが分かっていながら弁護団を糾弾する言動はまったく支離滅裂である。彼はブログの文末で、「私のメディアでの振舞い、ブログの表現も含めてどうしても許せないという方は、大阪弁護士会宛に懲戒請求をしてください」と開き直っているのだが、ここまで法律の裏側にある歴史性や人権の普遍性を勉強していない弁護士は、まさに懲戒に値するのではないか。

07年9月号
憲法は国家権力を縛るもの

▼8月15日の夜、「考えて見ませんか憲法9条」というNHK番組を見て、「9条改憲」を主張する人たちは現実をまったく見ていないと強く感じた。自衛隊や警察は国民を守るために存在していると、本気で思っているのには驚かされた。自衛隊が市民の平和活動を監視する内部資料を作っていたこと、警察・検察が無実の市民をでっちあげ・えん罪で苦しめていることをどう捉えているのだろうか。
▼富山県の強姦事件で服役後に無実が判明したえん罪事件と「志布志事件」の無罪確定を受けて、最高検は「証拠の吟味が不十分であった」、「自白の信用性の検討が必要」などといった報告書をまとめた。そして再発防止策として、消極証拠の多面的な検討、送致前段階の検察の捜査関与、検察官の適正な指揮・指導をあげている。
▼あまりにもでたらめな捜査や不祥事が続いているので、さすがの最高検も重い腰を上げたのだろうが、実は報告書を出した事実を記者発表しただけであり、国民に対しては何も公表していないのである。実際、最高検のHPにアクセスしても見ることはできない。
▼しかも再発防止策については、まったくの議論のすり替えをしている。真の再発防止策は、・関係公務員の厳しい処分、・取り調べの可視化、・代用監獄の廃止である。香川県坂出署の警察官が取調べ中の少年に暴力を振るった事件では、警察官は単なる懲戒処分で起訴猶予になった。こうした警察・検察の身内に大甘な体質が、次々に不祥事を生む要因なのだ。また警察は、被疑者を取り調べる際に録画や録音を用いることを頑なに拒否している。後ろめたいことがあるからこの期に及んでもやる気を見せないのであろうが、ヨーロッパ諸国のみならず韓国などアジアの国々もこれに取り組んでいるのに、日本だけ「捜査に支障をきたす」という理屈はたつはずもない。被疑者の身柄を警察の留置所内に置く代用監獄問題にしても、日本が批准済の国連人権B規約に明らかに違反している。国際法曹協会や国連人権連盟の再三の勧告も、政府は無視し続けているのだ。この三つさえ速やかに行えば、市民に見えない報告書でアリバイをつくる必要など何もない。
▼憲法17条は、公務員の不法行為により損害を受けたときは、その賠償を求めることができると規定されている。しかし8月15日の番組討論を見るかぎり、9条改憲派の頭の中はいまだに明治憲法下の「国家無答責の原則」で止まっており、「国家性善説」に支配されている。国務請求権は、近代憲法の重要な人権のカタログである。憲法は国家権力を縛るものだという認識を、人びとはもっと強く持つべきだと、終戦記念日の夜に考えさせられた。

07年8月号 「性悪説」で考える

▼山口県光市の「母子殺害事件」の主任弁護士を務める安田好弘さんに、銃弾が同封された脅迫状が届いたという。許すことができない卑劣な行為であるのに、なぜかマスコミの扱いは大きくない。一方、最高裁から広島高裁に差し戻された控訴審の様子は大々的に報道され、毎日のように21人の弁護団バッシングが繰り返されている。ワイドショーでは、弁護方針のみならず弁護活動自体まで否定するような軽薄なコメントが堂々となされている。ブログなども、「ネットウヨク」の主張と変わらないものばかりである。
▼遺族である本村氏が熱烈に支持されるのは、1990年の事件直後に「もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てくれば、私が自分の手で殺す」と発言したのがきっかけのようだ。多くの人は、被告少年の残虐な行為と被害者への同情から、あたかも自分のことであるかのごとき「疑似被害者」になってしまった。また弁護団の多くが死刑廃止論者ということで、刑事被告人の弁護自体が許せないという空気である。あだ討ちを賞賛する、非常に怖い風潮だ。
▼私は、本村氏が「死刑は廃止してはならない。殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心し、そこまで純粋でまじめな人間に生まれ変わったのに、その人間の命を社会が奪い取る、その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だという真実の裏返しで、はじめて奪われた人に命の重さと尊さを知る、そこに死刑の意義がある」と述べているのを、ネット情報で知った。
▼被害者遺族の心境としては分かるが、メディアがこの発言を一般論として肯定し、この価値観を社会に流布して世論を誘導することはあってはならない。「改心したものを殺すことこそ意義がある」という冷淡で強い応報感情は、遺族という属性ゆえに理解されるのであり、社会がこの価値観を共有したなら時代の針を100年戻すことになる。
▼私は「性悪説」をとる。生まれたばかりの赤ん坊はサル同然であるがゆえに、教育が必要であり育む環境が大切なのだ。死刑をもって犯罪者を抹殺して事足りるのであれば、「悪」から「善」へ人を導くことも不必要になる。光市の事件を「性悪説」で考えれば、別な視点を見出せるのではないか。
▼最後に「豊川児童殺害事件」逆転有罪判決と「JR浦和電車区事件」の不当判決について一言。二つの冤罪事件の共通点は、無理やり犯人を作り上げたでっちあげ犯罪だ。明白なアリバイに無罪判決を出せない裁判所は、無用の長物、否、姦悪である。

07年7月号 防衛省を告訴しよう

▼自衛隊のイラク派兵に反対する個人や団体に対して、陸上自衛隊情報保安隊が情報を収集し、市民を監視する内部文書を省内に配布していたことがわかった。陸自幹部は、「派遣される隊員や家族のことを考えれば、反対運動を調べるのは当然」と開き直り、久間防衛大臣にいたっては「抗議活動の風景を撮ることは違法ではない」、「マスコミが取材で写真を撮るのがよくて自衛隊がだめだという根拠はない」と、6月6日の参議院外交防衛委員会で答弁している。謝罪するどころか正当性を主張し、内部の「犯人探し」にさっそく着手した。言語道断であり、厚顔無恥としか言いようがない。
▼「隊員や家族のために、表現の自由を制約してもよい」という理屈は、「イラクは安全だ」と嘘をついて派遣している、というのと同じだ。自衛隊が身内の隊員を欺いて派兵を強制しようとするとき、市民が注意を喚起するのは当たり前であり、それを抑圧するのならばすでに日本は民主国家ではない。明らかに憲法21条に違反するものであり、「国家は憲法によって縛られる」という基本的な原理を、国は再確認すべきである。
▼防衛大臣は、「マスコミだって写真を撮っているのに、自衛隊が撮って何が悪い」とまで言っている。“馬鹿も休み休み言え”と言いたい。福島や宮城の住民が、自衛隊のヘリコプター騒音に抗議する電話をかけたことや、小牧基地に市民9人が派兵中止を申し入れたことを「反自衛隊活動」としたことは、「私事をみだりに公開されない」プライバシーの権利を明らかに侵害している。また「承諾なしにみだりに容貌・姿態を撮影されない自由」は、すでに最高裁京都府学連事件判決でも示されており、その根拠は憲法13条の幸福追求権にあることぐらい、法学部の学生ならば誰でも知っている。「知る権利」の伝達者であるメディアと軍事権力機関である自衛隊とを同列に考えている軽薄な大臣など、すぐに更迭すべきである。
▼本件は、自衛隊法の枠を逸脱しているばかりではなく、憲法違反の重大事件である。前田哲男氏が指摘するように、「有事協力を義務付けた国民保護法制がその時代背景としてあり、抗議活動の監視は有事法制が作り出した組織としての自然の欲求」という側面が強い。そういう危機感をもったマスコミ報道は不十分であり、「読売」や「産経」は虫眼鏡で見なければ気がつかないような扱いである。「監視された」側の人は、この事態に沈黙することなく防衛省を告訴してほしい。付随的違憲審査制のわが国では、「違憲訴訟」を提起できる人は限られる。当事者は、根拠法の違憲確認と公務員の不法行為に対する国賠請求をもとめて闘ってほしい。市民が立ちあがれば、必ずこの国を正しく導けると信じている。

07年6月号 在日朝鮮人大弾圧を許すな!

▼在日朝鮮人や朝鮮総連などに、不当な政治的大弾圧が続いている。北海道出身の主婦の二児が1974年に北朝鮮の工作員に拉致された事件で、警視庁公安部は在日朝鮮留学生同盟中央本部など4箇所を家宅捜索した。容疑は、33年も前に発生した「国外移送目的略取」である。警察は、事前に捜索情報をマスコミに漏洩し、警察官と朝鮮人団体の関係者がもみ合う映像を撮らせ、悪意をもって排外主義を煽った。33年前の罪が問えるのであれば、60数年前に朝鮮人を拉致してきた日本の拉致担当者の責任は、なぜ問われないのか。「拉致」が罪であることは、国や民族に関係ないはずである。
▼昨年の11月27日、甲状腺がんと婦人病の手術を受けた75歳の在日朝鮮人女性が、祖国訪問に際し薬を持参したことが薬事法違反に当たるとし、女性の自宅や朝鮮総連東京都本部などが家宅捜索された。当局は、栄養剤が生物兵器に転用されるとか、肝臓の薬が核施設労働者の治療薬であるとか、子どもじみた言いがかりをつけている。千歩譲って薬事法違反だとしても、老婆一人を逮捕するのに100人以上の武装機動隊が必要だろうか。
▼本年2月5日、札幌地検と北海道警は、ススキノにあるジンギスカン店が、売り上げを少なく見せかけ数千万円を脱税した容疑で、経営者と経営者が幹部を務めていた朝鮮総連北海道本部など10箇所を捜索した。こうした積極摘発の方針について、警察庁長官漆間巌の記者会見(1月18日)での「拉致被害者の帰国に向け、北朝鮮に日朝間の話し合いをさせるのが警察の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について『ここまでやられるのか』と相手が思うように事件化して、実態を明らかにするのが有効」という発言を、「日経」は無批判で垂れ流している。外務省「アジア大洋州局」は、いつから警察庁の所管になったのか。日朝間の対話の促進を、誰一人として警察になどお願いしたことはない。
▼対米追従のエセ右翼で極端な排外国粋主義者である安倍晋三を総理に選んでしまったことが、ここまで歪な社会を生んでしまった。しかしもっと私が恥じるのは、朝鮮人が大弾圧されても、見て見ぬふりをしている日本人の存在である。ナチスが共産主義者を弾圧したとき、自分は共産主義者でないから無関心であった。労働組合を弾圧したとき、組合員でないから無関心でいた。ゲイを槍玉に挙げたときも、自分はゲイでないから黙っていた。ユダヤ人が弾圧されても、見てみぬふりをしていたら、ゲッシュターポ(国家秘密警察)が玄関をノックした。いま、そういう日本になりつつあるのがとても怖い。

07年5月号 都知事選の結果でわかるリテラシーの低さ

▲統一地方選挙が終わった。なんといっても驚いたのは、“天王山”といわれた東京都知事選挙で、4年前に300万票を獲得して圧勝した石原知事が、今回も280万票をえて完勝したことである。金にまつわる多くの不正や弱い者に対するさまざまな差別発言を、東京都民は許したのであろうか。石原知事は当選後のインタビューで、「一部のメディアの根も葉もないアンフェアーなバッシングを受けた。しかし都民の知的レベルは高い。良識を示してくれた」と述べているが、はたしてそうであろうか。
▲開票日の翌日、新聞にはさまざまな「街の声」が載っていた。私は、50歳のある女性会社員の「声」を読んで、我に返る思いがした。「石原さんのはっきりした、ワンマンのところが気に入っている。リーダーシップをもってやってくれるといい。五輪誘致の話も夢があっていいじゃない」という意見である。これが一般的な都民の気持ちなのであろうと感じた私は、とても暗い気持ちになった。石原氏がワンマンであることは、指導力があるということに通じるものではない。リーダーシップとは、人の意見に耳を傾け、全体を集約して統率することである。石原知事の感情的なものの言い方や態度は、単なるわがままであり独断専行以外の何ものでもない。また、歯に衣を着せない彼の発言を賞賛する多くの人たちは、自分には言えないことを代弁してくれる知事に、おそらく憧れの気持ちを抱いているのであろう。自らは権力にプロテストできずにいながら、代わって言ってくれる人を求めている人が多いとすれば、非常に怖いことである。
▲政治家は、選挙の際に「国民の良識的な審判であった」とよく口にするし、マスコミも「市民の政治意識の高さが示された」などとよく解説する。しかし私は、まだまだ日本人は政治を見る眼が養われていないと感じるし、政策中心に政治を選択する力は成熟していないと思う。知事選の争点であったオリンピックの誘致、あるいは築地市場の移転にしても、多くの都民は賛成していない。だが結果において「石原圧勝」ということは、都民は個々の政策では判断していないということであろう。また国政選挙においても、マニュフェストよりも党首のイメージで政党を選択しているのが実態のような気がする。
▲石原知事は「都民の知的レベルは高い」と言ったが、私は素直に同意できない。教育現場で疲弊し苦しむ教師たち、「ババア」と差別された高齢者、犯罪者扱いをされたアジアの人びと、アイデンティティをもてない者とバカにされた障害者、こうした方がたの胸の痛みに思いを馳せられる都民でなくてはならないと思う。一人の都民として、「もっとポリティック・リテラシーをもとう」と呼びかけたい。

07年4月号  松岡大臣、浄水機は光熱水費ではないですよ!

▼松岡農水大臣が、事務所代や電気水道代がかからない議員会館に資金管理団体を置きながら、2001年から2005年までに2800万円もの光熱水費の支出を収支報告していたことが問題となっている。光熱水費がかかった理由として、3月5日の参議院予算委員会では「ナントカ還元水や暖房とか、そういうものも含まれている」と詭弁を弄しているから呆れ果てる。
▼多くの政治家は、資金管理団体、政党支部、複数の個人後援会などさまざまな政治団体をつくり、それぞれを使い分けながら団体・個人からの政治資金の受け皿を確保している。各国会議員に与えられる議員会館は、基本的には日常の「立法・政策活動の便宜」のために供与されているものであり、金集めの道具として国から支給されているものではない。したがって、院の申し合わせとして個人後援会などの政治団体を会館に置くことは認められておらず、資金管理団体にのみ限定して事務所の所在地とすることが許されているのである。
▼参議院で追及された松岡大臣は、当初「確認して必要な範囲で答える」と答弁したのだが、さらに追及されると答えにつまり「ほかのことを質問したらどうか!」と逆ギレする始末である。そもそも国会での答弁は、国民の代理人である議員の質問に対し、正確・誠実に答弁する責務がある。国民をバカにした答弁は小泉前首相の十八番であったが、責務を放棄した答弁には、野党は審議拒否をしてでも毅然とした姿勢を示してほしい。
▼また、検察の動きにも注目したい。本件を立件しないとしたら、日本は法治国家ではなくなるであろう。議員会館は冷暖房が完備しており、しかも民主党議員の調査では浄水機など設置されていないことが判明している。そもそも浄水機は光熱水費ではないし、言い逃れはできないはずなのに、虚偽の答弁がまかり通り、虚偽の記載が許容されるならば、もはや日本に正義はない。「嘘吐きは泥棒のはじまり」という諺があるが、「嘘吐きは大臣のはじまり」である。鈴木宗男氏や辻元清美氏の逮捕など、この間国策捜査ばかりに熱をあげてきた検察であるが、「松岡氏は軽薄で毒にも薬にもならないから生かしておいてもよい」とでもいうのであろうか。憲法14条「法のもとの平等」とは何か、あらためて問われる時代であろう。

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